麦茶@嗅覚美学研究

においを用いた芸術、においと関わる人間のありかたなどを研究していきます。

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最近の記事

ナナイ「美的経験と達成」論とディドロ「関係の知覚」論の類似について

 上に引用したベンス・ナナイの美的経験についての論は、対象と鑑賞者自身の経験との間にある「関係」への注意から、達成(Achievement)という自己実現に向かう。  対象と、経験という対象の外にあるものとの関係に注目する考え方は、ディドロの「関係の知覚」論と似ている。  筆者は『なぜ美』でナナイの論に触れたとき、そこに「関係の知覚」への言及がないことを残念に思った。ディドロは『百科全書』を作成したことこそ広く知られているが、美学者としてのディドロの顔を紹介する日本の学者は少

    • 「美しい」という表現について

      私たちはしばしば、あるものを「美しい」と呼び、賞賛する。 「美しい」と呼ばれるものは、絵画や音楽が一般的だろう。「美しい色彩」「美しいメロディ」と言われる。一方、においや味は、「美しいにおい」「美しい味」とは呼ばれない。それはなぜか? 私たちはある程度客観的に好ましいものを「美しい」と呼ぶ。 絵画、彫刻、音楽、舞踏等は「美しい」。あるいは、美しいと思えず、自分はそれらを芸術として理解できないと考える(作者の意図や作品の来歴よりも、自身が「美しい」と感じるかどうかによって、

      • においと記憶の相互補完関係について

         前回の記事で、においによって呼び起こされる思い出が、鑑賞者に強い情動を与える例として、マルセル・プルースト『失われた時を求めて 第1篇 スワン家の方へ』(1913)を引用した。心理学の分野では、本書を通じてにおいによる記憶想起の特殊性が強調され、「プルースト効果」という語が定着するに至った。  本記事では、においと記憶の相互補完的な関係について論じる。この関係は、においが人間の記憶を呼び覚まし、人間はその記憶をもとに、においを意味づけるという、においと人間との相互作用を最

        • においは芸術になるのか? ――鑑賞者と制作者の視点

           前回の記事では、いきなり「嗅覚芸術の定義」と銘打って、あたかもにおいが芸術としての地位を与えられているかのようなふるまいをした。実際のところ、においには芸術の地位どころか、日常生活での地位すら危うい。日常生活が衛生的になるにつれて、もはや普段は無臭の方がよいとされ、においは排斥されているように見える。  そのような現代の生活のなかで、はじめからにおいを芸術として考えることは難しい。本記事では、においを芸術として(あるいは、少しでも面白いものとして)改めて提示することを目

        ナナイ「美的経験と達成」論とディドロ「関係の知覚」論の類似について

          嗅覚芸術の定義

           においを用いた芸術は、その定義や名称がまだ曖昧な、成長中の芸術だ。  先に言っておくと、「においを用いた芸術」とはいえ、どのようなにおいが芸術的かといったような、におい自体に関する議論はきりがなくなってしまう。どんなにおいであれ、芸術に取り入れるのはアーティストたちであり、その活動のなかで、においの種類に序列ができているとは思えないからだ。これは本記事のなかで示していくが、実際に悪臭も芳香も芸術になりうる。  問題となるのは、その芸術と体験の主要なコンテンツのなかに、鼻

          井上夢人『オルファクトグラム』感想

          はじめに 近頃、調香師を主人公とした『透明な夜の香り』(2020)『赤い月の香り』(2023)と、千早茜の作品によって、嗅覚やにおいを主題とした小説が注目されつつある。  かつて書かれ、今も読まれている中で、嗅覚やにおいを扱っているといえば、ユイスマンス『さかしま』(1884)第10章、ボードレールの「万物照応」的詩作品、ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』(1985)など、海外の作品が容易に挙げられる(とはいえそう多くはない)。  そして、日本国内におけるそういったいわ

          井上夢人『オルファクトグラム』感想