ナナイ「美的経験と達成」論とディドロ「関係の知覚」論の類似について

 わたしたちが美的な領域に気を配っているのは、そこに関与することから得られる経験のためだ。それこそが、美的な取り組みに対して喜んで多額のお金を支払う理由である。

 すべての美的経験に共通することは何か。わたしの考える最低限の説明でいえばそれは、〈美的経験のとき、わたしたちは単に対象に注意を向けるだけではない〉というものだ。わたしたちは対象と、経験の質、この二つのあいだにある関係・・に注意を向けている、という点だ。

厳密にいえば〈この対象と、それがどう経験されるか(この対象を見ることが自分にどう感じられるのか)との関係・・に注意を向ける〉ということだ。

ベンス・ナナイ他著『なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門』森功次訳, pp.36-37

 上に引用したベンス・ナナイの美的経験についての論は、対象と鑑賞者自身の経験との間にある「関係」への注意から、達成(Achievement)という自己実現に向かう。
 対象と、経験という対象の外にあるものとの関係に注目する考え方は、ディドロの「関係の知覚」論と似ている。
 筆者は『なぜ美』でナナイの論に触れたとき、そこに「関係の知覚」への言及がないことを残念に思った。ディドロは『百科全書』を作成したことこそ広く知られているが、美学者としてのディドロの顔を紹介する日本の学者は少ない。本記事ではディドロとナナイのどこに類似点を見出したかを示しつつ、雑記的になるがディドロの美学理論、特に「関係の知覚」についての紹介もできればと思う。

 ディドロは『百科全書』項目「美(beau)」で、「関係の知覚は美の根拠である(Diderot(1751), 筆者訳, p.179a.)」と定義した。

私は、私の外部では、関係の観念を私の悟性のうちに生じさすべきものを、その内部にもっているものすべてを美とよび、また私との関連では、この観念を生じさせるものすべてを美とよぶ 。

Diderot(1751), 筆者訳, p.176a. / 参考訳:中川久定(1971), p.337.

 ディドロは項目「美」において、美を主観と客観の相関関係のなかにあるとしている。ディドロの美学理論を体系的に論じた佐々木(1999)によれば、この美は、客観的に厳然と存在しているわけではなく、鑑賞者が能動的に発見するものである。対象と、対象を知覚する感性との間で、美は発見されるということだ。

関係は一般に、悟性の働きである。この働きは、存在と性質とを、両者がそれぞれ他の存在と性質との実在を前提する限りにおいて考察する。 … 関係は、われわれの悟性のうちにしかありえないにしても、知覚に関していえば、その根拠はやはり事物のうちにある 。

Diderot(1751), 筆者訳, p.177b. / 参考訳:中川久定(1971), pp.345-346.

 ディドロによれば、「関係(la rapport)」は対象の内外に存在し、対象を起点としつつ、鑑賞者によって能動的に知覚される。すなわち鑑賞者は対象の周囲に潜む「関係」を発見しているといえる。

 能動的に「関係」を発見・注目することは、ナナイの考える「達成」に近い。完全に受動的な美的経験からは、なかなか「達成」は生まれない。能動的な発見と注目があることによって、美的経験はポジティブな意味を獲得し、それは「達成」と呼ばれる。

 「関係」に注目する仕方にも類似点がある。ディドロの「関係」への注目は、ある種空間的だ。佐々木は「関係の知覚」が最も美的経験に貢献するシチュエーションを、言葉にならない線描や色彩の調子、光と影の描写など、「物体から浮遊したところに美を認める(佐々木(1999), p.170.)」状況だという。例えば色彩のコントラストや細かな描線によって表現される、豊かな空間描写への注目がそれだ。そのとき、鑑賞者の目は作品の1点を見つめているわけではない。むしろ作品全体を俯瞰し、全体の調和によって得られる空間的な美を享受している。

 一方、ナナイは対象と経験の質とに注目する美的経験について、「〈注意が無制限になっていて、かつ、見ている対象のさまざまな性質に注意が分散している〉という点(ナナイ2023, p.39)」が特別だという。やはり作品の1点に注目するのではなく、作品全体に注意を向けている。このような「注目する範囲の広さ」も2者の共通点といえよう。

 「関係」への注目に関して、「関係の知覚」論では、対象と経験との間に見出される「関係」が言語的に表現されずともよいとしている。ナナイは特に同様のことを論じているわけではない。
 ここに相違点を見出すことができる。ナナイのように美的経験を「達成」と考えるなら、その経験を言葉にした方がより「達成」といえるのではないか? 『なぜ美』ではこの点について特に書かれていない、というのも、ナナイにとって重要なのは「達成」としての美的経験であり、美的経験を保持しようとしたり、美的経験を再創造したりするのは「達成」のための一場面にすぎず、そこに言語化があろうとなかろうと、「達成」であることに変わりはないのだ。

ナナイとディドロの美学理論の類似と相違について、以下のようにまとめられる。
・類似
1.対象と、鑑賞者がその対象に対して感じる経験との「関係」を能動的に発見し「関係」に注目することが価値をもつ。
2.「関係」への注目は、作品全体に注意を拡散し、空間に広がるような鑑賞となる。
・相違
美的経験を言語化する要不要は共通しない(関係の知覚は言語化されない経験にも対応するが、達成としての美的経験は言語化してもしなくてもよい)

 言葉にできない経験への注目を許してくれる「関係の知覚」理論は、筆者にとって嗅覚芸術の理論に転用しやすい、非常に助かる理論だ。ナナイの理論はどうだろう。基本的には「関係の知覚」理論と似ており、美的経験を「達成」するためにある程度の努力が前提されている点は、嗅覚芸術が鑑賞者の能動性を必要とする点に合っている。今後ナナイの著作を参照して、嗅覚芸術の美学理論に役立てることができればよいと思う。


参考文献
・ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル共著『なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門』森功次訳, 勁草書房, 2023
・Denis Diderot『Encyclopédie』1751-1772「Beau」II, pp.176a-179a, 1751
 阪南大学貴重書アーカイブ, ディドロ=ダランベール『百科全書』 1751-1772(初版)
・中川久定訳「美  Beau」桑原武夫訳編『百科全書:序論および代表項目』pp.334- 362, 岩波書店, 1971
・佐々木健一『フランスを中心とする18世紀美学史の研究 ウァトーからモーツァルトへ』岩波書店, 1999


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