嗅覚芸術の定義

 においを用いた芸術は、その定義や名称がまだ曖昧な、成長中の芸術だ。

 先に言っておくと、「においを用いた芸術」とはいえ、どのようなにおいが芸術的かといったような、におい自体に関する議論はきりがなくなってしまう。どんなにおいであれ、芸術に取り入れるのはアーティストたちであり、その活動のなかで、においの種類に序列ができているとは思えないからだ。これは本記事のなかで示していくが、実際に悪臭も芳香も芸術になりうる。

 問題となるのは、その芸術と体験の主要なコンテンツのなかに、鼻で嗅ぎ取ることが含まれているかということだ。これだけは、どんなにおいを使っていても同じであろう。そもそも、鼻で嗅ぎ取れるものを、私たちは「におい」と呼んでいるのだから。
 それゆえ、筆者は「においを用いた芸術」をここで「嗅覚芸術」と言いかえることにする。絵画は「視覚芸術」であり、見ることがその美的体験を支えている。一方、「嗅覚芸術」では、嗅ぐことがその美的体験を支えることになるだろう。

 本記事では、嗅覚芸術の概要として、今までに行なわれた嗅覚的なインスタレーションと、香水を芸術とする可能性を示した18世紀の美学の一端を紹介し、嗅覚芸術の定義をはかる。

1.『百科全書』に見る香水の芸術化

 『百科全書』とは、ディドロやダランベールによって編集され、1751年から20年以上かけて刊行された、全35巻の百科事典だ。18世紀フランス啓蒙期の白眉と称され、日本では初版のものを「阪南大学貴重書アーカイブ」から読むことができる。本記事で引用した部分は全て「阪南大学貴重書アーカイブ」で読ませていただいた。この場を借りて御礼申し上げる。
(阪南大学貴重書アーカイブ | ディドロ=ダランベール『百科全書』パリ、1751-1772年(初版) (hannan-u.ac.jp))

 さて、その『百科全書』をわざわざ持ち出したのは、この書で香水が芸術として扱われる可能性が示されているからだ。以下に引用するのは、項目「快(Plaisir)」の最終段落である。

 快(plaisir)のなかには、享楽(jouissance)は快だが、欠如が苦痛にならないものがある。香水(parfum)の香気、建築・絵画・芝居の光景、音楽・詩・幾何学・歴史・選ばれた社会の魅力、これらすべての快は、この種のものだ。これらは、我々の貧しさを解消する助けではなく、我々を豊かにし、我々の幸福(bonheur)を増大させる恵みである。どれほどの人がそれを知らず、それでも甘美な生活を楽しんでいることか。しかし、他の強い喜び(agréable)の感情はそうではない。例えば、食べることを我々に勧める法則は、我々の従順さに報いることにとどまらず、不従順さを罰するものである。自然の創造主は、我々が我々を保護するよう促す世話を快だけに任せず、さらに強力な手段、つまり苦痛によって我々を保護するようにした。

Diderot(1765), 筆者訳, p.691b. / 参考訳:佐々木(1999), p.188.

 項目「快」によると、快にはその欠如が苦痛をもたらす快と、苦痛をもたらさない快がある。たとえば、食事による満腹の快など、自己保存に伴って感じる快は、空腹によって苦痛に転じる。一方、絵画や音楽、香水に触れて快を感じても、それらが失われて苦痛を感じることはない。

 このような快は、『百科全書』によれば幸福を増大させる。項目「幸福(Bonheur)」では以下のように書かれている。

快がところどころで生気を与えず、その上に味わいを注がないような幸福は、真の幸福(un vrai bonheur)というより平穏な状態や状況だ。それは悲しい幸福である。

Diderot(1751), 筆者訳, p.322a.

 「真の幸福」は、快によって、特に「香水の香気、建築・絵画・芝居の光景、音楽・詩・幾何学・歴史・選ばれた社会の魅力」といった快によって増大する。これらの快は、絵画や音楽を芸術として扱うことから、美的な快と呼ぶことができるだろう。(ディドロはただ快があればよいわけではなく、快と退屈が交互にやってくる状況が最も幸福だとも述べているが、話が幸福論に逸れるので省略する。)

 ここで、「真の幸福」を増大させるものとして、絵画や音楽とならび香水が挙げられていることに注目しよう。この点から、18世紀フランスでは、絵画や音楽が芸術として扱われるのと同様に、香水も芸術として定義される可能性をもった対象だったといえる。

 さらに、項目「香水(Parfum)」を見ると、当時の香水が現在のものと似ていることがわかる。

 香水(parfum)の多くは、ムスク、龍涎香、シベット、ローズウッド、杉、アイリス、オレンジの花、バラ、ジャスミン、水仙、チュベローズなどの香りのよい花で作られている。植物、乳香、安息香、クローブ、メース、その他一般に香辛料(des aromates)と呼ばれる類似した薬剤も使用される。
 … 
 かつてフランスではムスク、龍涎香、シベットなどの香水が求められたが、我々の神経がより繊細になったため、流行遅れになった。香水はしばしば、その香水が発散される物体(les corpus)そのものと考えられ、その意味で、最高の香水は東洋や暑い国々に由来する 。

Diderot(1765), 筆者訳, p.940b.

 ここで例にあげられているのは、動物・植物から採取される成分であり、香水の構成要素である。現在の香水にも、同じ成分が使われていることが多い。
 「我々の神経がより繊細になったため(depuis que nos nerfs sont devenus plus délicats)」と書かれているのは、18~19世紀フランスの公衆衛生の発達による嗅覚の変化だ。アラン・コルバンによれば、18世紀以前は、ムスク、龍涎香、シベット(霊猫香)など動物性の強いにおいを放つ香水が、その香水をつけた人を身体的・精神的に浄化することを期待され、広く利用されていた。しかし、衛生観念の発達に伴い、強いにおいは糞便などの不衛生なにおいを隠蔽するものとして排除され、18世紀にはむしろ植物性の淡いにおいの香水が好まれつつあったという(コルバン(1990), pp.96-104.)。

 この淡いにおいを好む傾向は、現在も続いている。現在では成分の動物性・植物性を問わず、身体を脱臭してにおいがあまり強く立たない部位に限って香水をつけることで、淡い芳香を楽しむようになっているといえるだろう。

 こうして、『百科全書』を通じて、現在の香水を芸術と見なす可能性が示された。

2.インスタレーション等に見る芳香の芸術化

 『百科全書』に基づくと、現在の香水を絵画や音楽と並列させ、鑑賞者に美的な快を与える対象として位置づけることができる。18世紀の香水の傾向の変化を踏まえると、美的対象としてのにおいは淡い芳香といいかえることも可能だ。

 美的対象としてのにおいを、芸術としても位置づけるには、そのにおいが人工物であるか、少なくとも人の手によって鑑賞に堪える状態に加工されている必要がある。芸術は原義としては技術(テクネー)であり、技術は鑑賞されなければ判定されない。『百科全書』的な美的対象としてのにおいは、調香師によってつくられた香水である。香水のにおいを通じて調香師の技術を鑑賞し、快を得る点で、香水は本来、芸術としての地位を与えられるべきものだ。
 今まで香水は、香水瓶や広告の視覚性に売り上げが依存していると見なされ、鑑賞されるべき美術品というより、商業的な大量生産物としての側面が取り上げられてきた。しかし、優れた香水は視覚的な情報に関わらず快く、鑑賞者に感銘を与えるものだ。香水を芸術として位置づけることはさほど難しくない。

 香水はその快さゆえに芸術となりうるが、芸術の価値を快さのみとすることは、現在考えられている芸術の様々な価値と相反する。たとえば、芸術の価値を作品に込められた社会的意図におく場合、香水以外のにおいも芸術といえるようになるかもしれない。
 過去に行なわれたインスタレーションの事例を見ていくと、自然物の芳香や、悪臭をも含む様々なにおいが作品に組み込まれている。

インスタレーション事例1.Michael Rakowitz 《Rise》 (2001)

  Michael Rakowitzはニューヨークのチャイナタウンのビルを用いた展示《Rise》で、隣接するパン屋のにおいを会場内に流し込んだ。
 パン屋と会場を繋ぐダクトを通じて焼き立てのパンのにおいが充満するが、来場者は実際のパンを会場内に見つけられない。結果として、来場者は中国人住民が通うそのパン屋に出向き、「ニューヨーク市内におけるジェントリフィケーションによっていかに中華系の人々が排斥されているか」という現実を、住民自身の目線で突きつけられることになった。
 Rakowitzの意図していたのは、中国系アメリカ人の生活を守るための運動を活性化させることだった。そのためにパン屋のにおいという魅力的な芳香でひとを集めたのである。

 Drobnick(2006)はこのインスタレーションを以下のように分析している。

重要なのは、《Rise》が人工的なにおいよりむしろ、実際のにおいに頼ったところだ。その環境内のにおいの明白な場所は、コミュニティの危うさの生きた証拠という素材を提供した。ともに公共空間を構成するという、社会と経済の連関を認識可能なものにすることを、Rakowitzは「開発」という破壊的な力にさらし、抵抗力を潜在的に活性化させた。

Drobnick(2006), 筆者訳, pp.349-350.

 Rakowitzのインスタレーションは、パンの芳香を楽しませるだけでなく、チャイナタウンの危機的状況を暗示するという社会的な意図を含んでいる。これは、パンという日常的な自然物から漂うにおいを使ったことで可能になったことだ。自然物の芳香は、たんににおいを嗅ぐだけでは日常の風景に埋没してしまい、美的に鑑賞されることが難しい。Rakowitzはダクトで会場内ににおいを直接流し込むことで、この問題を解決している。
 Michael Rakowitz《Rise》は社会的意図を示すという意味で芸術としての価値があり、さらにアーティスト本人の工夫によって自然物の芳香が芸術となる可能性を示す事例である。

インスタレーション事例2.Ernesto Neto 《It happens on the friction of the bodies》 (1998) ほか

 Ernesto Netoというアーティストは、ストッキングにスパイスを詰めてつるすという展示を複数回にわたって行なっている。
 これは、においの混淆によって、鑑賞者それぞれが独自の体験をすることを期待していたようだ(Shiner and Kriskovets (2007), p.273)。このインスタレーションでは、スパイス類は鑑賞されるべき芸術として扱われる。

 Netoの場合、それらを演出する環境にも注目する必要がある。Netoはスパイス入りのストッキングを天井から下げたり、床に敷き詰めたりと視覚的にわかるような複数の展示方法を試みているからだ。
 Netoはこの展示法についてのインタビューで、スパイスという自然物の芳香を用いて「不思議の国のアリス」のような「Wonderland」をつくることを目指し、においの快さを視覚にも訴え、より刺激的な美的体験となるように構成したと語っている(Steiner (2000), pp.84-89)。

香道

 自然物の芳香を用いた2つのインスタレーションを参照した。加えて、このような自然物の芳香を用いた美的体験として、香道を無視することはできない。香道は自然に存在する香木の欠片を焚くことでにおいを発散させ、そのにおいを楽しむ。

 香道には、たんに香木のにおいを鑑賞する聞香と、複数の香木のにおいを聞き分けて楽しむ組香の2種類があり、どちらも厳密に管理された環境下で行われる。香木のにおいをより純粋に楽しむためである。
 特に、身体と空間の脱臭については、香水の利用時やインスタレーションの場以上に細心の注意が払われているが、ここでは香道をRakowitzとNetoのインスタレーションに並ぶ自然の芳香を用いた芸術として示すにとどめる。

 『百科全書』からインスタレーションまで、芳香を美的対象とし、芸術としてのにおいを定義してきた。『百科全書』に準ずるならば芸術としてのにおいは香水だけになるが、実際に行なわれているインスタレーション香道を含めると、人工の芳香に加えて、自然の芳香も芸術として扱われうることがわかる。
 自然に存在するにおいが生活のなかに埋没していかないように環境を設定することは、芳香の快さだけでなく、作家がにおいに込めた意図をも強く示すといえる。芸術としてのにおいは、その快さに加えてそれが体験される環境と、作家の意図とを含めたものとして定義することが必要になる。これらを踏まえると、芸術としてのにおいの定義は、「においを鑑賞するために作家の意図に即した環境設定がなされていること」とすべきだろう。

3.インスタレーションに見る悪臭の芸術化

 自然の芳香は、人工の芳香と同じように、芸術としての対象になりうる。それは、アーティストがそのにおいを芸術として扱うための環境を用意しているからだ。
 それでは、対象が悪臭であっても、アーティストの工夫次第で芸術になるだろうか。不快なにおいである。ただの生ごみや糞便のにおいであれば、芸術にはなりえない。しかし、実際に悪臭を用いたインスタレーションは行なわれている。

 Angela Ellsworthというアーティストは、1997年にMuriel Magenta のインスタレーションである「Token City」(地下鉄のシミュレーション)のオープニングレセプションで、自身の尿に浸したドレスを着て出席した。
 ShinerとKriskovetsによれば、彼女の意図は、「においが視覚的な障壁を超越し、地下鉄内の社会的境界を取り除く過程を実証すること」だったという(Shiner and Kriskovets(2007), pp.273-274.)。
 このように一部の作家は悪臭を採集し、尿にドレスを浸すなど鑑賞されるための加工を行ない、自身の意図を悪臭によって示している。環境芸術として見れば、悪臭も芸術になりうるということだ。香水のように「純粋な快」を与えるわけではなく、自然物の芳香の快さもないが、アーティストはにおいを用いた芸術の幅広さを教えてくれる。

4.嗅覚芸術の定義

 ここまで、18世紀の思想と現代のインスタレーションの事例を並べ、香水(人工的な芳香)、自然物の芳香、さらに悪臭を含んだ、「嗅覚芸術」の概要が見えてきた。

 本記事をふまえると、美的対象となるにおいは、作家の意図に従って鑑賞可能な状態になることで、芸術作品としての形をとることができるといえる。

 こう定義すると、もはやそのにおいが快を与えてくれるかどうか、つまりディドロが求めたような、真の幸福を増大させるような快を与えてくれるかどうかは、問題ではなくなってしまう。
 しかし、私たちは18世紀の理論にとどまっているわけにはいかない。実際に、ディドロの想像を超えて、インスタレーションの世界ではあらゆるにおいが美的体験の源になる可能性を表し始めている。

 重要なのは、鑑賞者が美的ににおいを鑑賞できるような環境を、作家が自身の意図に即して設定することだ。環境とのかかわり方が、嗅覚芸術に大きな影響を及ぼすことになる。これは、空間全体を利用するインスタレーションのありようと密接に結びついている。

参考文献

Denis Diderot『Encyclopédie』1751-1772
 「Plaisir」XII, p.691 b, 1765
 「Parfum」XI, p.940b, 1765
阪南大学貴重書アーカイブ, ディドロ=ダランベール『百科全書』 1751-1772(初版) URL:https://opac-lime.hannan-u.ac.jp/lib/archive/encyclopedia/

Jim Drobnik「Eating Nothing Cooking Aromas in Art and Culture」edited by Drobnic『The Smell Culture Reader』(Sensory formations series), pp.349-350, Berg, 2006

Larry Shiner and Yulia Kriskovets「The Aesthetics of Smelly Art」The Journal of Aesthetics and Art Criticism 65:3, 2007

Rochelle Steiner「Ernest Neto interview」Rochelle Steiner; with contributions by Giuliana Bruno ... [et al.]『Wonderland』pp84-89, the Saint Louis Art Museum, 2000

アラン・コルバン『においの歴史 嗅覚と社会的想像力』山田登世子・鹿島茂訳, 新評論, 1990新訳版

佐々木健一『フランスを中心とする18世紀美学史の研究 ウァトーからモーツァルトへ』岩波書店, 1999

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