「美しい」という表現について

私たちはしばしば、あるものを「美しい」と呼び、賞賛する。
「美しい」と呼ばれるものは、絵画や音楽が一般的だろう。「美しい色彩」「美しいメロディ」と言われる。一方、においや味は、「美しいにおい」「美しい味」とは呼ばれない。それはなぜか?
 
私たちはある程度客観的に好ましいものを「美しい」と呼ぶ。
絵画、彫刻、音楽、舞踏等は「美しい」。あるいは、美しいと思えず、自分はそれらを芸術として理解できないと考える(作者の意図や作品の来歴よりも、自身が「美しい」と感じるかどうかによって、その作品の芸術的価値を判断しようとする鑑賞者は多い。)。

一方、手の込んだ料理や香水は「美しい」とは呼ばれにくい。「美しい」以外の表現は多々ある――「芳醇だ」「爽やかだ」「陶然とする」「調和がとれている」――しかし、「美しい」と表現されていないだけで、味やにおいは絵画や音楽から一歩離れているように感じられる。

「《美しい》と呼ばれるものが芸術だ」という考え方は、一般に根強いものだろう。
見目のよさ、耳触りのよさ、味のよさ、においのよさ、それぞれによさを認めることはできるのに、「美しい」と言い換えられるかどうか、という点で、味とにおいは芸術として受け入れられにくくなっている。
この表現の格差を埋めることができれば、味覚と嗅覚は芸術の1つとして見なされやすくなるはずだ。特に、筆者の関心の的である「嗅覚芸術」の確立に役立てることを狙っている。
 
本記事では、
私たちは何を「美しい」と呼んでいるのか
「美しいにおい」という表現はなぜなされないのか
どうすれば「美しいにおい」という表現が生まれうるのか
以上3点に絞って、「美しい」という表現について考察する。


1.私たちは何を「美しい」と呼んでいるのか

ナナイは『なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門』の中で、美的経験について「対象と自分の経験の質との関係に注意を向ける」という特別な経験と説明している。また「注意が無制限になっていて、かつ、見ている対象のさまざまな性質に注意が分散している(ロペス他, p.39)」状態とも言い換えている。

複数の性質に注意を向けるということは、それぞれの性質が互いに異なっているということだ。それは、作品内に互いに異なる複数の注目すべき箇所があることを意味する。ナナイの考える美的経験からは、作品が複数の対象(注意を向けるべき箇所)を内包する、いわば美的対象の複合体であることが読み取れる。
芸術作品は、美的対象の複合体であると仮定しよう。
 
一方、「美しい」と呼ぶ対象が、決して単一の対象ではないことは日常的な例から分かる。
私たちは赤一色の画面を、それのみで「美しい」とは言わない。真っ白な背景とのコントラストや、その赤色のなかにある微妙な色彩を捉え、「美しい」という。あるいは、たんに人間を描いた絵画よりも、その配置に気を配った絵画の方が「美しい」。

つまり、色と色の関係、線描の描き方、構図の調和に「美しい」と呼ぶべきところがあるのだ。
「美しい」という表現は、対象同士の関係に適用されていると言ってもいい。私たちは、複数の対象を内包した作品について、その対象同士の関係を捉え、複合体としての作品の調和、統一を「美しい」と呼んでいる。「バランスがいいですね」という意味で、「美しい」と言っているのだ。
 
しかし、対象同士の調和のみが「美しい」と呼ばれるための条件だとしたら、味やにおいは早々に「美しい」と呼ばれていてしかるべきだ。特に味には「マリアージュ」という表現があり、口内で複数の飲食物の混淆をたのしむ文化がすでにある。これを食品同士の調和の美と言わずして何であろうか。しかし、料理の味が「美しい」と呼ばれることはなかなかない。
 
ここから推測されるのは、私たちは作品の調和を見出す以前に、習慣的に「美しい」と呼ぶ対象を選んでいるということだ(注2)。それは、作品を芸術かどうか判断することに等しい。
印象派絵画は、発表当時全く「美しい」とされなかった。アカデミーにとって、印象派には当時の「美しい」と呼ばれるべき要素を持っていなかったのだ。しかし現代では、印象派絵画に美を見出す習慣が根付き、絵画芸術の一角として確立している(注3)。内容は同じでも、文化習俗によってその評価が変化することの分かりやすい例だろう。
 
このように、私たちが「美しい」と呼ぶ基準に、作品側の素質だけでなく鑑賞者の習慣が影響すると考えると、習慣の変化によって、今後「美しい」と呼ばれる対象が広がる可能性が考えられる。これは、現在「美しい」と呼ばれないものたちにとって朗報だ。
 
ここまでで、私たちが「美しい」と呼んでいるものは以下2つの性質どちらかを持っていると言える。
条件1.作品(美的対象の複合体)内に対象同士の調和がある
条件2.その作品が習慣的に「美しい」と呼ばれる対象を含んでいる

次章以降、嗅覚芸術が以上2点の条件を満たすために何が必要か、考察する。基本的には条件1が「美しい」と呼ぶ基準と考えられるが、前述のとおり味やにおいが条件1を満たしている可能性が考えられる以上、条件2こそが克服すべき障壁といえるだろう。


【注2】絵画や写真の構図にこだわるのはなぜか? その構図が「美しい」と知っているからだ。 そこには、確かに調和がある。しかしその構図に調和を見出すことも、習慣的に身についているだけのことかもしれない。新しい角度を試し、新しい描法を試すことは、一般的には難しい。しかし既製品の調和を逸脱することで、習慣的な美を脱して、新しい美を作り出すことができる。

【注3】より簡単に言ってしまえば、見慣れないものを「美しい」と呼ぶことはほとんどない。しかしその見慣れないものに対して、自分が見慣れている美を見出すことができれば、見慣れないものはとたんに「美しい」ものになる。見慣れない絵画は美しくないし、聞き慣れない音楽も美しくない。ただしこれが非常に鑑賞者優位的な考え方であることを忘れてはならない。その作品の固有の美を、私たちが感じ取れていないだけなのだ。

2.においが「美しい」と呼ばれないのはなぜか

前章では、ナナイの論から、作品を美的対象の複合体と考えることで、その調和を「美しい」と呼んでいるのではないかという結論に至った。しかし、作品に「美しい」と呼ばれるべきポテンシャルがあっても、「美しい」と呼ばれないことがある。それについては、私たち鑑賞者が習慣的に「美しい」と呼ぶ対象を選別しているからだと仮定した。

ここから、「美しい」においと呼ばれない理由が2つあげられる。
理由1.においを用いた作品から調和を読み取れない
理由2.においを「美しい」と呼ぶ習慣がない
 
調和を読み取れないのは、単ににおいに複雑さがない場合と、私たちがそのにおいの複雑さを嗅ぎ取れていない場合の2パターンがある。特に後者が有力だ。
においは様々な有機体によって発せられており、基本的ににおいは複数の発生源から生み出されている。そのため、においを用いた作品に調和を見出すことは容易なはずだ。
 
しかし本来複雑であるにおいを、私たちはひとつのにおいとして嗅ぎ取るだけで、その奥行きを確かめようとはしない。そういう習慣がないからだ。「美しい」と呼ぶ習慣がない上に、美しさ(調和)を確かめる習慣もない。加えて言うならば、嗅覚を刺激する作品がそもそも少なすぎて、においの美に関心を向ける機会もない。そのため、においを用いた作品を「美しい」と表現する機会はずっと訪れてこなかった。

3.どうやってにおいを「美しい」と感じるか

 以上2点の障壁を克服し、どうやって「美しい」においを体験するか。障壁それぞれに沿って2つの方法を考えよう。
方法1.においの複雑さ(調和)を読み取る努力をする
方法2.においをすでに「美しい」と呼ばれている作品に組み込む
 
複合体の調和を美しいと表現するならば、においの複雑さを意識することが「美しい」においを体験することのきっかけになる。
とはいえ、1つのまとまったにおいを分析し、その複雑さを味わう、マリアージュ的な楽しみ方はなかなか難しい。それに比べると、香水のように、においの変化を楽しむ仕方はすでに根付いている(注4)。
香水は分かりやすい形で、においの複雑な調和を示してくれるといえる。
マリアージュ的な楽しみ方は、空間に広がったにおいの内容を嗅ぎ分けることが必要になるが、においの変化に注目するならば、あるにおいから別のにおいへの流れや、その変化から醸し出される心情の変化等も楽しみに含まれてくる。楽しみ方は多い方がとっつきやすい。
 
方法2の分かりやすい例はインスタレーションだ。空間全体を利用したインスタレーションの中では、空間全体に広がる性質を持つにおいが、作品全体の雰囲気を決定する。ここに嗅覚芸術の一歩が刻まれている。しかし、においだけがある空間を美的に楽しめるほど、現代の鑑賞者は嗅覚芸術に慣れていない。
 
そこで、視覚的な刺激とにおいを組み合わせ、より分かりやすく芸術としてのにおいの存在を示すことが必要になる。すでに紹介した事例だが、Ernesto Netoはインスタレーションの会場内にストッキングに詰めたスパイスを展示した。天井から釣り下げられたり、床に敷き詰められたりしたスパイスは、においのインパクトもさることながら、視覚的にも非常に刺激的だ。
 
視覚刺激とにおいの組み合わせという点では、香水についても言えることがある。
香水は身につけることで真価を発揮する芸術だ。肌の含水率や温湿度によって、同じ香水でもにおいの立ち方は変化する。香水は身につけた人に合わせてその姿を変え、その人独自の雰囲気を醸し出すといえる。すなわち、香水の美は身につけた人の美と密接な関係にある。
 
平安時代には、貴族は香を衣服や部屋中に焚きしめた。香のにおいはそれを身につけた人自身を示す表現として、特に『源氏物語』で頻繁に描かれている。例えば、夕顔は光源氏の気配を香のにおいから察知し、その手から逃れる。
においは、身につけた人の存在を暗示する。『今昔物語集』巻十九「村上天皇御子大斉院出語十七」では、晩年の大斉院選子の素晴らしさを描写するために、「薫の香艶ず馥く氷やかに匂ひ出たるを聞ぐに、御隔子は下されたらむに、此く薫の匂の花やかに聞ゆれば(小峰校注, p.160)」と書かれている。安田政彦はこの描写を取り上げて、「高貴な女性の美しさ、それは容姿のみならず、雰囲気としての美しさ、気高さを示している(安田, p.154)」と述べる。においの美しさは、身につける人の美しさを演出するのだ。
このようなにおいの利用法を、現代では香水で実現することができるだろう。


【注4】香水を嗅いで何のにおいかを当てることに何の意味があろうか? それは絵画に描かれたオレンジに使われた絵具を1つ1つ当てていくようなものだ。それよりも、絵具同士の混ざり合いを楽しむように、においの混ざり合いとその変化を楽しむべきだろう。
そして、絵具同士の混ざり合いは、各絵具の特徴が少しずつ分かるとき、最も面白いものになる。マリアージュとは、1つの味が全てを打ち消すのではなく、複数の味が組み合わさって奥行きをもたらすことをいう。絵具の例はマリアージュ的な楽しみ方といえるだろう。同様に、様々な特徴が感じられるにおいの作品は、その混ざり合いを楽しむのに適している(薫物合など)。
とはいえ、そのようなにおいの楽しみ方は現代では未だ一般的でなく、ここでは分かりやすい楽しみ方として、においの変化に注目している。

4.振り返り

 ここまで、「美しい」という表現にこだわって、なぜにおいが「美しい」と呼ばれないのか、どうすれば「美しい」と呼ばれうるのかについて考えた。
芸術の価値が「美しい」と呼ばれるかどうかによって決められるなど、鑑賞者優位の考え方は本来ばかばかしいものだ。作家がいなければ作品は生まれないのだから。
しかし実際のところ、鑑賞者に受け入れられなければ、芸術は完全な成功を収めることができない。そのため、本記事では現在「美しい」と表現されるものを真似る形で、においが「美しい」と呼ばれるシチュエーションを模索した。簡単に振り返ろう。
 
まず、「美しい」と呼ばれる作品には、美的対象同士の調和がある。においは本来複雑なものであるから、対象同士の調和を読み取ることは容易だ。香水が良い例だろう。
次に、私たちは習慣的に「美しい」と呼ぶ対象を選んでいる。この点がにおいを「美しい」という表現から遠ざけている。単純に、私たちはにおいを「美しい」と呼ぶ文化を持っていないのだ。しかし前述のように、複雑な対象同士の調和をもつ嗅覚芸術作品はすでに存在する。あとは私たちがにおいの複雑さに触れ、その調和を読み取る習慣をもつことだ。
 
そのためには、視覚刺激とにおいの組み合わせが有効だ。インスタレーションを鑑賞するだけでなく、日常的に香水や香を利用することで、身の回りにある美的対象ににおいを結びつけることが容易になる。芳香をまとう習慣が、「美しい」対象と結びついた「美しい」においとして、においの美を認識することを可能にするだろう。

参考文献

ドミニク・マカイヴァー・ロペス 、ベンス・ナナイ、ニック・リグル 著 『なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門』森功次 訳, 勁草書房, 2023

安田政彦 著『平安京のニオイ』吉川弘文館, 2007

『今昔物語集』巻十九「村上天皇御子大斉院出語十七」小峰和明校注『今昔物語(四)』pp. 159-162, 新日本古典文学大系36, 岩波書店, 2017

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