においと記憶の相互補完関係について

 前回の記事で、においによって呼び起こされる思い出が、鑑賞者に強い情動を与える例として、マルセル・プルースト『失われた時を求めて 第1篇 スワン家の方へ』(1913)を引用した。心理学の分野では、本書を通じてにおいによる記憶想起の特殊性が強調され、「プルースト効果」という語が定着するに至った。

 本記事では、においと記憶の相互補完的な関係について論じる。この関係は、においが人間の記憶を呼び覚まし、人間はその記憶をもとに、においを意味づけるという、においと人間との相互作用を最も端的に示してくれる。
 決して一方通行ではない、相互の働きかけによって、人間は美的な態度をもってにおいに接することができる。筆者の上記のような考えに説得力を持たせるべく、今回は「においが人間に及ぼす作用」「人間がにおいに及ぼす作用」の2方向について論じるものである。

 先に「においが人間に及ぼす作用」として、においによる記憶想起、主にプルースト効果の定義(古典から例外まで)を示す。そして次に「人間がにおいに及ぼす作用」として、そのようにして想起された記憶にもとづく、においの意味づけについて示す。

1.においによる記憶想起ーープルースト効果を中心に

1 プルースト効果の古典的な定義

 まず、前回の記事でも引用した、プルースト『失われた時を求めて』の一部を再度引用する。

お菓子のかけらの混じったそのひと口のお茶が口の裏に触れたとたんに、私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとした。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいたのだ。

たしかにこんなふうに私の奥底で震えているのは、イメージであり、視覚的な思い出であるにちがいない。それがこの[紅茶とマドレーヌの]味に結びつき、その味のあとに従って、私のところにまでやってこようとつとめているのだ。

この味、それは昔コンブレーで日曜の朝(それというのも日曜日には、ミサの時間まで外出しなかったからだ)、レオニ叔母の部屋に行っておはようございますを言うと、叔母が紅茶か菩提樹のお茶に浸してさし出してくれた小さなマドレーヌの味だった。プチット・マドレーヌは、それを眺めるだけで味わってみないうちは、これまで何ひとつ私に思い出させはしなかった。

プルースト, pp. 108-113, 2006

 プルーストが感じた記憶想起は、紅茶に浸したマドレーヌを口に入れた瞬間に起こっている。そのため厳密にはにおいと同時に味の影響を考えるべきではあるが、心理学においてプルースト現象という用語は、においによって瞬間的に記憶が想起されることを指している。想起される記憶は非常にプライベートな内容であることが多く、心理学の用語で自伝的記憶と呼ばれる。

 山本(2008)によると、従来の心理学では、プルースト現象によって想起される記憶は「古く、快でかつ情動性が高く、特定的で追体験感覚を伴った出来事」だとされ、そのような記憶を想起させる手がかりとなったにおいは「快でかつ感情喚起度が高く、命名が容易」とされてきた。におい、特に芳香によって、ひとの幼児期(しばしば小学生以前)の個人的な記憶が、強い感情の動きを伴って感じられるということだ。
 これはプルーストが、紅茶とマドレーヌという命名可能で快いにおいから、少年時代のことを思い出し「素晴らしい快感」を得たという記述に忠実な定義だといえるだろう。

2 プルースト効果の例外とされる事例

 一方、川部(2013)はこの定義に反して、においを嗅いでも「感情が生じなかった」と答える群があることを指摘した。これはにおいによる記憶想起に快・不快が伴わなかったという意味である。川部の調査によると、においによる記憶想起には、「既に抽象化・構造化を経た自伝的記憶」と、まとまりに欠けた「フラッシュバックに近い記憶想起」の2種類がある(川部, 2013, p.55)。
 構造化された記憶は、まとまっていて言語化されやすい。プルースト自身の記述はこちらに分類されるだろう。反対に、構造化されていない記憶は断片的な映像にすぎず、快・不快を伴わない報告、あるいは身体的な変化を伴う報告が目立った。例として、川部の調査で報告された記憶の語りを以下に引用する。

Aさんの語り:(香水のにおいから、一時期よく着ていたワンピースを思い出した事例)<その記憶の思い出し方?>なんかその、なんか「場面」ではなくて、その服のことだけを … <記憶が想起された時の気分?> … ちょっとハッとする感じ。<うん。嬉しいとか楽しいとか悲しいとか>そういうものでもないですね。もうなんか、「あっ」っていう感じ、「思い出した」っていう。
 
Cさんの語り:(葬儀の線香のにおいから、以前に経験した葬儀を思い出した事例)初めに席に座っているときはあんまり、なんとも考えてなくて、 普通にお経とかも聞いてましたし普通だったんですけど、お焼香に行って、自分の席に戻ってきたときに、すっごいドキドキして、バクバクバクバクってこう、止まらなくなって。 … すごい揺れたっていう感じが。感情というかなんか、出てきたっていう感じが自分の中ではして。

ibid., pp.56-57.

 これらの結果から、川部は「プルースト現象においては、通常の自伝的記憶想起と異なり、記憶想起が生じる以前に、『感情付与以前の、一つの映像でしかない記憶』や『感情付与以前の、身体状態の変化』が生じている可能性がある」(ibid., p.57)と指摘している。感情が伴わない、いまだ構造化されていない記憶が想起されたということだ。そして、構造化されていないために、想起された記憶を語ることは難しい。

 「少数事例から得られたものであるため,どこまで一般化できるかは現在のところ不明」(ibid., p.58)と川部自身が指摘しており、このような群が従来のプルースト効果の定義を大きく揺るがすほどの説得力を持つことは難しい。
 しかし、においから想起された記憶が容易に言語化されるばかりではないという点は重要だ。においによる記憶想起と、記憶の言語化(構造化)は、必ずしも一直線に結びつく2地点ではないということだ。

3 記憶の想起と構造化

 プルーストはにおいから想起された記憶を豊かな言語表現で描写し、そのような構造化された自伝的記憶が、プルースト効果の代表と考えられている。しかし、そのようなにおい―記憶-言語表現の3者の関係性は固く結びついているとは限らない。

 においから記憶が想起される。さらにその記憶を言葉で表現しようという営為が起こる。プルースト効果は、この2つの作用に分けることができるのではないだろうか。においによる記憶想起について、「感情を伴わなかった」「断片的な記憶が想起された」と報告した川部の調査は、プルースト効果の定義に暗黙裡に含まれてきた「記憶の構造化」を、議論されるべきテーマとして再提示しているのだ。

 プルースト効果の定義を通じて、においから人間への働きかけについて示すとすれば、それは2つに区分できる。
①記憶の想起。まとまった記憶としても、断片的な記憶としても、何らかの記憶がにおいによって想起される。これはプルースト効果の中核を成す作用だ。
②記憶の構造化。従来のプルースト効果の定義では、想起された記憶は当然言語化されうるものと考えられているように見えるが、筆者はこの過程を案外複雑なものだと考えている。少なくとも、滔々と語れる記憶想起の仕方ばかりではないだろう。記憶の構造化には、においから人間への作用以外に、人間からにおいへの作用を考える必要がある。

2.記憶によるにおいの意味づけ

 においから人間への作用として、プルースト効果に代表される記憶想起について示した。川部の調査で、言語化しにくい記憶想起のあり方がプルースト効果の例外として挙げられたことによって、「想起された記憶を言語的に表現する(構造化する)」ということが、プルースト効果の定義に含まれていると分かってきた。
 そして、川部の指摘するように、記憶想起の際、記憶の構造化は必ずしも十全に行なわれているものではない。身体的な感覚を言語的に表現する過程には、人間からにおいへの働きかけが介在すると考えられるだろう。2.では、においと記憶の相補関係にもとづき、においによる記憶想起を経た先にある、記憶によるにおいの意味づけ(においの構造化)について論じる。

 なお、記憶の構造化が必ずしも言語表現に結実するとは限らない(絵画や音楽になるかもしれないし、曖昧さがむしろ評価されることもあるだろう)が、プルーストの作品も言語表現であるから、ここでは「記憶の構造化」=「記憶の言語化」としておく。言語表現は他者に自身のことを伝える最も容易な表現であることも理由の1つだ(芸術から受けた自身の感覚を他者に伝達することが人間社会に及ぼす効果については、18世紀にジャン=バティスト・デュボスが『詩と絵画についての批判的考察』(1718)で論じている。別の記事で取り上げたい)。

1 言語表現による意味づけとしての「構造化」

 においと記憶の相補関係に本格的に踏み込む前に、においと記憶の関係をまとめておこう。きわめて簡単に表すなら、以下のようになる。

 におい受容においによる記憶想起記憶によるにおいの意味づけ

 においによって記憶が想起されるところから、においと記憶の相補関係が始まる(蛇足だが、記憶がにおいを想起させると考える哲学者もいて、非常に興味深い)。においによって記憶が想起され、反対に、想起された記憶が受容したにおいを意味づける。
 これに加えて、1.で見たように、においから想起された記憶も意味づけ(構造化)られる必要がある。記憶の構造化はプルースト効果の構成要素だ。すなわち、「記憶によるにおいの意味づけ」と「においによる記憶の意味づけ」の並行が必要になる。
 すなわち、より厳密に表すなら、以下のようになる。

 におい受容においによる記憶想起記憶によるにおいの意味づけ
(記憶によるにおい想起)        ↑ 相互補完 ↓
                 ↘においによる記憶の意味づけ

 筆者は、意味づけは言語的に行なわれるものと考えている。さらに、記憶によるにおいの意味づけ(においの構造化)と、においによる記憶の意味づけ(記憶の構造化)は、相互補完的に働くとも考えている。
 例えば、花束の「甘い」においによって、以前花束をもらった記憶も「甘い」ものであったかのように思い出される。そして、そのような「甘い」記憶は、その後別の機会に花束を受け取ったときも、「甘い」と感じる要因になる。
 あるいは、苦々しい、つらい記憶と花束が結びついていれば、花束は「生臭い」「苦い」においを香らせる。そのように受容したにおいは、花束に関する記憶をいっそう苦々しいものにする。

 実際のところ、花束には植物の甘いにおいも苦いにおいも混ざり合っているものだが、記憶との相互補完によって、特定のにおいだけ受容し、特定の記憶だけ想起するようになるのである。

 疑問に思った人がいるかもしれない。においと記憶の相補関係は理解できた。しかし、なぜわざわざ言語的表現を介在させなければならないのか? 花束の例は、一見、言語的な表現がなくとも起こりうるものと思える。プルーストの作品も、言語的表現が残されているだけであって、実際の体験としては言語化する必要がないのではないか?

 重要なのは、言語的な表現が、感覚に理性の基盤を与えるということだ。感覚と理性は、相対するものではない。むしろ、互いに作用し、感覚はより鮮烈な体験へ、理性はより深淵な理解へと向かっていく。体験が理解の質を深め、理解が体験の質を高める。感性の学としての美学において、感覚を理性的表現におきかえることは不可欠であり、それは人間の美的態度として、感覚に敬意を表している証である。

 記憶の構造化とにおいの構造化は、確かに言語表現を介さずとも、日常生活で普通に行なわれていることかもしれない。しかし、美学的にこれらを論じる場合、言語的表現を介することで、この2つの構造化はより自覚的な働きとなる。そして、習慣として行うよりも高い効果を生み、人間のにおいに対する美的態度を成長させる契機となる。
 構造化を言語表現による意味づけと捉えることは、プルーストがそうしていたからというだけでなく、より美的な態度へ接近するために必要な行程なのである。

 やや迂遠になってしまったが、においの構造化と記憶の構造化が相互補完的に働くことをまとめた。そのような構造化は、言語表現による意味づけとして捉えることで、理性の働きとしての一面をもち、我々はより自覚的に構造化の過程を踏むことになる。これによって、人間のにおいに対する美的態度をより高度に発展させることができる。

2 においの構造化

 本題に移ろう。においの構造化と記憶の構造化が相互補完的に働いているとはいえ、本記事で優先して論じられるべきは、においの構造化だ。においに対する美的態度について論じることが本旨だからである。
 以下では、記憶との相互補完を念頭に置きながら、においの構造化について論じる。

 においを言語的に表現する際、表現のバリエーションとして、筆者は以下の4種を主に考えている。

・個への集約(バラの、花の)
・質への集約(かぐわしい、甘ったるい)
・感情への集約(快い、嫌な)
・連想への集約

 1つずつ見ていこう。「個への集約」は、主に名詞的な表現だ。りんごのにおい、バナナのにおい、バラのにおい、とある程度具体的な名詞で表現することもあれば、花のにおいといった、大きなグループを指す表現もある。
 「質への集約」は、主に形容詞的な表現だ。「かぐわしい」「ふくよかな」「臭い」「つんとする」といった、におい表現に特有な語彙が多い。形容詞的表現は、名詞的表現に比べて具体性に乏しいが、その分、においの独特な感じられ方を的確に表現することができる。
 「感情への集約」は、「快い」「嫌な」といった、においを嗅いだ瞬間の快不快にもとづく表現だ。「質への集約」と近しく、しかし「質への集約」と比べると、においそのものというより、人間の受け取り方に依拠しているため、別の集約とした。
 「連想への集約」は、今回扱っている記憶との相補関係にもとづく表現だ。においから連想されたことが、そのままにおいを表現する語彙となる。例えば、「実家のにおい」「海水浴をした日の髪のにおい」などがある。

 この4つの集約を持ち出したのは、においを構造化する上で、においを嗅ぐ本人が、自身の記憶や感情と向き合う必要があると述べたいからだ。

 「感情への集約」「連想への集約」に顕著だが、においの言語的表現はにおいを嗅ぐ当人の独自の視点が求められる。そのような独自の視点を、名詞や形容詞を駆使して表現するなかで、我々は「鑑賞者」として、においを美的に受容し、理性の働きを基礎として感覚を高みに押し上げ、ついににおいへの美的態度の一環として、においの構造化へ至るのである。

 においの構造化は、主に鑑賞者の記憶や感情をもとに構築される。それでは、何のにおいか知らないにおいや、具体的に名前を思い出せないにおいについては、どのように構造化されるのだろうか。あるいは、構造化などされないのだろうか。具体例を参考に、より詳しく見ていこう。

3 においの構造化 具体例

 岩﨑らが2020年にスウェーデンで実施した実験は、記憶によってにおいが意味づけられる過程を分かりやすく示している。以下に実験の概要を述べる。
 事前に65歳以上の親しい人間関係にある2人組を募集し、スウェーデンのクリスチャンスタッ ドにある公立美術館Krischanstad Konsthalle Museumを会場に実験が行なわれた。岩﨑らは、においと音によって個人の「なつかしい思い出」を引き出す目的で、松本泰章の制作した嗅覚芸術作品《Box of Eurydice》を用いた。《Box of Eurydice》は桐の箱に収められた銀器であり、銀器の蓋を開けて手に取るとにおいがし、箱からかすかな音が流れる。器を手に取り、においをかぎ、音を聞くという3点で、触覚、嗅覚、聴覚に訴えることを目指した作品である。においのもとは実験参加者には明かされないが主に沈丁花で、音は8種類の環境音がランダムに用いられていた(岩崎ら,2020,pp.65-66)。
 ここで問題となるのは、沈丁花のにおいはスウェーデン人にとって馴染みのないにおいだということだ。これを岩﨑らは「馴染み深さの問題(ibid., p.68)」と捉えている。馴染みのないにおいであるため、においから想起された記憶を語ることから外れ、においを当てるクイズになってしまうのだ。報告では、この問題を作家当人である松本が、参加者らに時折思い出についての語りを促すなどのサポートをすることで解決している。
 この問題には別の重要な側面もある。参加者は誰も、このにおいの源が沈丁花であると当てることはできなかったが、思い出を語るうちに、自身の記憶と関連した異なる事物をにおいの源と考えるようになっていくのだ。以下にその部分の記録を引用する。

① 1 組目のペア(夫婦 70代)音源:海
夫:若いころ、休みの日に道を歩いて、たくさん歩いて、歩き回った後にシャワーを浴びていい匂いがして、気持ちよかった感じを思い出す。その時に使っていた香水?
妻:車の匂い?いや、17歳くらいの時の庭の匂い。花が咲いている。お日様も照っていて。
 
② 2 組目のペア(女性 2 人60代 友人また38年来の 同僚)音源:虫の声
A さん:レモングラスの匂い、おばあちゃんの匂い、とても素敵な思い出。おばあちゃんの家でよく素敵な時間を過ごした。
B さん:レモンの匂い。虫よけの匂い。アメリカでの幼少期に、夕方になったら飛ぶ蛍を 妹と捕まえて壜の中に入れて光らせた。
 
③ 3 組目のペア(夫婦 70代) 音源:ピアノの音
夫:自分はライティング・デザイナーだったので部屋の高いところで照明の操作をしていて、この音でオペラハウスのことを思い出した。綺麗な音楽が流れて、ドレスアップした女性たちが香水をつけて入ってくる。自分は高い位置にいるから、その香水のにおいが上がってきて。それを思い出す。
妻:私が若いころ、両親がパーティーをよく開いていた。パーティーの最後はいつも社交ダンスで、こんな音楽を聴きながらたくさんの人が踊った。母は決して香水を付けない人だったから、この匂いはそのパーティーの時にゲストがつけていた香水を思い出すわ。

ibid., pp.66-67.

 この3つの記録を踏まえると、本来馴染みのない沈丁花のにおいは、「庭の匂い」「香水」「レモングラスの匂い、おばあちゃんの匂い」「レモンの匂い。虫よけの匂い」と表現されている。これらの表現は、個人の記憶と結びついている点で「連想への集約」といえるだろう。「個への集約」といえそうな名詞的表現が多いことも特徴的だ。

 注目したいのは、3つの記録それぞれで、沈丁花のにおいが個々人の過去に嗅いだにおいのコンテクストを与えられている点だ。馴染みのないにおいは、それが実際に何のにおいであるかに関わらず、鑑賞者の記憶にある、類似したにおいとして意味づけられるようだ。
 果たしてそれは、沈丁花のにおいそのものを表現していることになるのかと、疑問に思う人もいることだろう。
 結論からいえば、この記録で語られているのは、においから想起された記憶の方であり、においの表現とはいいがたい。しかし、だからこそ、記憶とにおいの相互補完を確認することができる。においから想起された記憶が、言語的表現によって意味づけられ、記憶の意味づけにもとづいて、何のにおいか知らずとも「~の匂い」と言語的に表現されるのである。
 ここで、名詞的表現が多いことも必然的に考えられてくる。記憶を描写する上で、においはもはや直接的には表わされないのである。個別具体的な名詞によって記憶が描写され、それがにおいの表現に転用される。その結果が、「庭の匂い」「レモングラスの匂い」といった表現なのだ。

3.においと記憶の相補関係

 においの構造化の具体例を見ていくに従って、自動的に、においと記憶の相互補完の様子が現れた。2者の関係は非常になめらかに繋がっており、においを表現しようとして記憶の描写になってしまうこと、記憶の描写がそのままにおいの表現にもなりうることが分かった。これは、においの構造化の曖昧さを示しているのだろうか?
 においの構造化は、記憶の構造化との相互補完によって、記憶に浸食されてしまっている印象を与えかねない。しかし、実際のところ、記憶の方も、においに影響されているのである。あるにおいから想起された記憶は、別のにおいから想起された記憶と全く同じではありえない。記憶の描写はにおいにもとづいており、においの表現は記憶の描写にもとづいているのだ。

 プルースト効果の古典的な定義とその例外から、プルースト効果における「記憶の構造化」という要素を抽出し、記憶とにおいが相互補完的な関係にあることを利用して、においの構造化について論じた。においと記憶の関係は案外複雑で、頻繁に互いを行き来している。その関係を自覚的に利用することが、我々のにおいに対する美的態度を形成する。

4.参考文献

山本晃輔「においによる自伝的記憶の無意図的想起の特性:プルースト現象の日誌法的検討」認知心理学研究第6巻第1号, pp.65-73, 2008 URL:https://doi.org/10.5265/jcogpsy.6.65

川部哲也「半構造化面接法によるプルースト現象の特徴の検討」心理臨床センター紀要6号, pp.53-60, 2013 URL:http://doi.org/10.24729/00005288

岩﨑陽子・松本泰章・杉原百合子「スウェーデンにおける匂いのアートワークショップ」嵯峨美術大学・嵯峨美術短期大学紀要第45号, pp.65-69, 2020

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