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叱る依存、夢のタッグマッチ(2)


村中直人さんの「『叱れば人は育つ』は幻想」のレビューです。

前回はこの本が、村中さんの前作「『叱る依存』が止まらない」(以下、叱る依存本)の続編ではなく、実践本に近いものだという話をしました。

この本は対談形式になっており、最初の対談者は工藤勇一先生です。

工藤先生は教育、特に学校教育界隈では有名な先生です。以前、麹町中学校の校長を務めた事があり、その時に大胆な学校改革を行った事で一躍有名になりました。

・校則は全部見直してスリムに。
・定期テストは全廃して、単元ごとに何度も受けられるテストを実施。
・担任制廃止でチーム制に。
・体育祭は全て生徒主導、などなど。

工藤先生が書いた本も沢山あるのでそれを読むと分かりますが、何も奇を衒ったり、目立ちたかったりしてそんな事をしたわけではありません。

工藤先生は子どもにとってよい環境を突き詰めた結果、今の学校には子どもの教育のためになっていないものが沢山あることに気づき、長年かけて変えていきました。

そんな先生なので「叱る」という行為に対しても何かしらポリシーはあるに違いない、もしかしてすでに叱らない教育を実践していたのでは!と思い対談を読みました。

開口一番「叱りますよ」

びっくりしたのは、工藤先生が開口一番に「私は叱りますよ」と述べた事です。

この本は村中さんから対談を依頼し、依頼された側にはあらかじめ、叱る依存本を読んでもらうというのが条件になっていたそうです。

つまり「叱るって効果ないどころか逆効果だよー」と主張している本を読んだ上でその著者に対して「叱りますよ」と発言するわけで、さすが工藤先生、その後にどう続けるのか。ワクワクしますよね。

※ここから若干のネタバレがありますので、気になる方は本を読んでからご覧下さい。

「叱る」の定義は?

詳しくは本を読めば分かりますが、工藤先生の『叱る』に対する定義が、村中さんが叱る依存本で定義したのもと違う事がわかります。

村中さんの応対が素晴らしく、工藤先生の「叱りますよ」を聞いた直後に「私の叱るの定義はこうです」とまず前提が合っているかを確認するんです。

村中さんの『叱る』の定義は「言葉を用いて相手にネガティブが感情を抱かせ、相手の行動の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする事」というようなものです。

しかし、工藤先生は『叱る』は声を荒げず、相手をコントロールするためのものではなく、かつ自分で状況を解決するための支援をするもので、声がけとしては次のようになると話します。
①どうしたの?
②きみはこれからどうしたいの?
③先生に手助けできる事はある?

しかし、この叱り方ができるには子どもとの信頼関係ができている事が重要だ、と付け加えました。

叱る先生から言われたら…?

いつもガミガミ叱る先生から「きみはこれからどうしたいの?」と言われた場合どう感じるでしょうか。

これは質問の形式をした説教で、質問と思って答えたら説教が加速する、この先生の期待する答えを言う事を求められている、と感じるでしょう。

こういった「疑問の形をしてるけど、答えを求めてない口撃」を修辞疑問文といいます。私は学校や家庭での教育における大きな問題と思ってますが、その話はまた別の機会に。

閑話休題

工藤先生の言うように、信頼できる関係が築かれていないと、工藤先生流の問いかけも子どもにとっては攻撃と取られてしまいます。

問いかけは問いかけであり、答えればそれを受け入れて答えてくれる、という経験が少ない子どもの場合、先生に質問された、ということだけでネガティブ感情がわいて「どう答えたら先生が怒らないか」という逃げ方を考えることに頭がいっぱいになってしまう事もあるでしょう。

村中さんによる工藤先生の「叱る」の考察

また工藤先生との対話の後の村中さんの考察も素晴らしいと思いました。

工藤先生の言う「叱る」は声を荒げず、コントロールを意識せず、という意味でした。

この叱るは、一般の人がイメージする「叱る」の定義から離れているように見えるが、工藤先生はなぜそれを叱るとして扱っているのか。

それには、叱るを手放せない学校現場の事情によるものではないか、と考察しています。

学校現場の「叱る」は真っ向から否定できない

昔から今に至るまで「叱る」は学校教育とセットでした。今生きている大人たちの大部分が村中さんの定義した「叱られる」という経験があり、今いる教員のほとんどが「叱る」を指導の一つの方法として使っているでしょう。長年指導には『叱る』が必須とも思い、実践している教員に対して「叱るは効果が無い」「むしろ逆効果」と言えば反発は必至で、ついてこない先生も出てきます。

そのため、『叱る』を否定するのではなく、『叱る』のはいいけど、正しい叱り方はこういう形だ、というように叱るという言葉を残しつつ、その中身を変質させていったのでは、と推測しており、なるほどなと思いました。

学校現場に限らず親と子、兄弟、先輩後輩にも、指導と叱るはセット、という認識が一般化している社会において、叱るを全否定するより工藤先生の手法の方が進めやすい環境もあるかもしれません。

さて、工藤先生からは『叱る』から離れる手法として「叱るを変質させる」「叱るでなく支援する」という知見が得られました。

次の対談者、中原さんとの対話では「フィードバック」というキーワードが出てきます。中原さんの実践は、「叱るのが無意味だというけど、じゃあどうすればいいの?」という疑問に対しての一つの答えと言えるものを知ることができます。

では、次回は中原さんとの対談のレビューを書いていきたいと思います。


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