藤田嗣治からの挑戦状
2018年、冬の京都へ。
『没50年 藤田嗣治展』が京都近代美術館で開催された。
京都の四条にあるロシア料理店
『レストランキエフ』にて
自分のノートに『藤田嗣治展』の感想を、そこはかとなくかきつくる。
はじめまして、嗣治さん
明治生まれの藤田嗣治は、生涯の約半分をフランスで過ごしたらしい。
藤田嗣治の絵はどの作品が有名かというより
『乳白色の肌』
といわれる独特の色味への評価が高く、中でも裸婦像でそれが際立っているらしい。
私自身、藤田嗣治の絵を見るのは初めてだった。
展示方法は生まれてから死ぬまで描いた絵を順番に展示され、
プライベートな出来事や、その時に世界で起こったことなども添えられていた。
描かれた年代によってタッチが目まぐるしく変化していく作品たち。
時代に翻弄され、表現も変化し、出会っていく人から影響を受けて、どんどん変わっていったのだと、手に取るように感じた。
別の言い方をすると、彼は非常に不安定な情緒だったのではないかと、見ている私の情緒まで不安定になってきた。
印象的だったのは
「この絵はどこから見ている前提で描いたんだろう?」
「なぜ、こんなに引きで描いているの?」
「どうしてちょっと左寄りに描いたんだろう?」
どれも奇妙な構図に思えて、次々に疑問が浮かんでくる。
一つ一つに意図は感じても、正解が全くわからない。
そんなモヤモヤしたものを抱えながら、次の絵に進む。
別の年代では、魅せたい部分を際立たせるためか、色を入れる部分とそれ以外をワントーンで描いた作品が続いた。
「なぜここにだけにこの色を?」
そうしてまた疑問を沸き上がらされ、なんとなく自分なりの答えを見つけるまで、その絵から離れられなくなる。
そして、初期の作品に多く見られた、背景と被写体の間に色を塗らない白い空間を僅かに残してことにも、
「なぜ塗らなかったの?」
「なぜこんな書き方をしているの?!」
心がザワザワしていると、
「さあ、なぜかわかるかい?」
そう挑戦状をたたきつけられたような気がした。
「この空白から何かを感じ取れ」
そう自分に発破をかけ、100年前に描かれた藤田嗣治の絵と私はにらめっこした。
『アッツ島玉砕』
太平洋戦争で軍の要請受け、藤田嗣治は戦争記録画を描いていた。
その中で描いたものの一つが『アッツ島玉砕』だった。
200号サイズという大きいもので、だいたい縦2メートル、横2メートル60センチ。
ほとんどが茶色で描かれ、まずその色使いに心乱された。
死んだ者も、まだ辛うじて生きているであろうものも横たわり、人の上にまた人が積み重なっている。
そんな兵士一人一人を彼はどんな気持ちで描いていったのだろうと考えると、受け取りきれないほどの強いものが私の身体に重くのしかかってきた。
あまり長い時間まじまじと見ることはできないくらいの圧迫感、
匂いもしてきそうなほどで、息が浅くなった。
学芸員への尊敬
フランスで活躍した藤田嗣治の絵は海外の博物館や個人所有の作品が多かった。
この展示会のために、海を越えてあれだけの数を一斉に集めるなんて、どれだけの時間と労力を費やしたのだろうと敬服した。
最後の部屋には藤田嗣治と同年代の日本の画家の作品も展示されており、
友人の祖父である『伊藤柏台』の日本画も展示されていた。
これは藤田嗣治が大陸で生きていた時代を、その時の日本の画家の作品と対比することで、
今の私たちにわかりやすく魅せるためであると感じた。
最後の最後の一滴まで藤田嗣治を味わった後
『レストランキエフ』で薔薇ジャムの紅茶をいただきながら
「疲れた」
私の口からそんな言葉が出た。
絵を見るのに、あんなにもパワーを使ったことはなかった。
自分の魂を余すことなく使い切った人のエネルギーは、
その人が死んで50年経っても作品に宿っているからなんだろう。
もうこれは、感じたままを吐き出すしかない。
このまま家に帰ったら
「お前に俺の意図がわかるのか?」
と夢にまで出てきそうだった。
とにかくペンを動かして書き続けた。
帰る頃には雨が降りはじめ、寒さが一層増していた
「やっぱり京都の冬は寒いな、もっと暖かい装いの方がよかったかもな…」
ため息交じりで、京阪電車の特急に乗り込んで家路についた。
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