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ミュシャが挑んだ「芸術」と「デザイン」の境界 -2020年6月4日

 「芸術」と「デザイン」の境界は、実に曖昧なものである。しかし、その目的や観客は異なるものだ。今回私は、アルフォンス・ミュシャという人物の生涯と作品を題材にとって、「芸術」と「デザイン」の境界を探ろうと思う。
アルフォンス・ミュシャの生涯の作品は、どこまでがデザインで、どこまでが芸術なのだろうか。

 ミュシャの出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの為に制作したポスターだった。ポスターは女優や舞台の宣伝という目的が明確であり、デザインの側面が強い。ミュシャの出世は、デザイナーとしてのものだったということだ。
また、ミュシャは雑誌の挿絵の依頼も受けていた。こちらも、雑誌のレイアウトやコンセプトという目的に添っての仕事であったことから、デザインの仕事だったと言える。ミュシャの華麗なポスターや挿絵は、目的を持って制作され、その受取り手は大衆であった。

 デザイナーとして支持を受け、金銭的に余裕が出たミュシャは、「スラブ叙事詩」という絵画の制作に取り掛かる。この作品が、ミュシャのこれまでの作品と全く異なるところは、この絵には依頼主が不在だったということだ。つまり、ミュシャが自らの依頼人となって、自らの為に描いた作品である。今まで、デザイナーとして依頼を受け、目的のために絵を描き、大衆に支持されたミュシャとは明らかに違った。彼は誰の依頼も受けず、空想上のスラブ民族を想像力で描き続けた。このことから、「スラブ叙事詩」は、ミュシャ個人の創造・主観にもとづく純粋芸術作品と言えるのではないだろうか。

 ミュシャの晩年、オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立した。この時のミュシャの仕事は、とても興味深い。まず、ミュシャは新国家の紙幣・切手・国章などのデザインを無償で行った。依頼や目的があったという点ではデザイナーとしての仕事だったのかも知れないが、報酬を受け取らなかったという点で、また今までの仕事とは異なるものであったに違いない。おそらくミュシャは、「スラブ叙事詩」を20年間描き、芸術家としての新しい扉を開いたのだ。そしてその扉から吹き込んだ新しい風を、デザインに取り入れた。きっと、自らのチェコに対する愛国心を、今までのデザイナーとしての作品作りに融合した結果、デザイナーとしての依頼の中で自らの芸術作品を完成させることに成功したのだと私は思う。それで、ミュシャは無報酬という姿勢をとった。ミュシャは、デザインと芸術の融合を、晩年に成立させていたのだ。

 ブルーノ・ムナーリの言葉に、「芸術家の夢は美術館を目指すこと。デザイナーの夢は市内のスーパーを目指すこと」という言葉がある。この言葉に基づくとすれば、ミュシャの生涯はデザイナーとして終わったのかも知れない。しかし、ミュシャは確かに、芸術家としても存在していたのではないだろうか。そして、晩年の仕事は、デザイナーとして在りながらも、純粋芸術の形をとったように思う。このことから、私は芸術とデザインの境界は存在するが、その共存は可能であると考えるに至った。

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