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「責任を取る」って嫌な事だろうか。自由とはなんだ。※思想強め
SNSの普及により「炎上」「誹謗中傷」が注目されるようになりましたね。そのせいか、「責任」に過敏になっている人が多く感じられます。
私の大好きなyoutubeチャンネル「モモウメ」では「枕詞が怖い」というテーマを扱っていました。この「枕詞」も「言い訳を先にしておきたい」という気持ちの表れですよね。
皆、責任が怖いんです。
モモウメさんの公式youtube
【ギャーッ!!】ビジネスメールに使われる枕詞が怖すぎる!<【SNSアニメ】モモウメOL編>
私はどっちかというと、このメール送る側に対して
「めっっっちゃ、分かるwwwww」
と共感しちゃいました。
だって、「基本的な質問で恐縮ですが・・・」って言わなきゃ
(はぁ?そんなことも分んねーのかよggrks!!)
って頭の後ろの鬼が囁くんですもの!
※「ggrks」とはネットスラングで「google検索ぐらいしろやカスが」の意。
そう、私カム子も例にもれず「まじで責任怖いマン」なのです。
その結果ダラダラとチャットレディーを続ける結果にもなってるんですよね。
同じような方、めっちゃいるんじゃないですかねw
今回は、
「カム子も責任が怖い人間なんだ!」
「なんで責任が怖いと感じるの?」
「責任ってなんなんだろうね」
って話をしようと思います。
カム子も責任が怖い
何の気なしに開いたお仕事の募集ページ、興味が湧いて読んでいる途中で急激に心臓が「バクバクバクバクッ!」
カム子(??????)
コーヒーを飲んだ訳でもなく、睡眠不足でもなく、激しい運動をしたわけでもない。原因は読んでいた「お仕事の募集要項」。
なぜか、まだ募集もしていないのに脳が勝手に
「ミスをして偉い人に怒られる想像」(責任を求められる想像)
をしてたんですよ。学生時代やバイト・契約社員時代の「怒られ経験」の恐怖が脳内にドバ~っ!と・・・。
で、私なりに色々と調べて分かった事を以下にまとめてみました。
責任が怖い原因1:日本人は遺伝子的にネガティブな人が多い
これは科学的に解明されていて、日本は幸せホルモンと呼ばれる「セロトニン」の分泌量が遺伝子的に少ない「SS型」を持つ人口の割合が65%にも及ぶんです。(ちなみにアメリカでは「SS型」は19%)反対に、セロトニン分泌量が多い「LL型」はたったの3%、残りは中間の「SL型」で32%です。
ネガティブは遺伝子的に見て当然なんですね。
日本は地理的に震災が多い国です。そのような環境では、
楽観的に構えてる人たちは災害で命を落とし、危機回避能力が高い人が必然的に生き抜きます。
そうして「如何に危険を察知して回避するか」に長けた結果
不安を感じやすい人種が残ったというわけです。
自然災害に対しては良い働きをするネガティブですが、
現在社会においては、何か問題が起きて自分がその責任を取らなくてはならなくなるリスクにも同様の恐怖心が生まれ「責任嫌い」という性格が出来上がるのです。
とはいえ、求人見てるだけで動悸がするのはちょっとおかしいですよね。
それで気が付いたのがもう一つの原因、「感情の解像度が低い」問題です。
責任が怖い原因2:感情の解像度が低い=責任の範囲を大雑把に捉えている
例えば、あなたは味に関する言葉を「美味しい」か「まずい」の2つしか知らないとします。
その場合、ご飯が美味しくなかった時に
塩が多くて「しょっぱい」のか
砂糖が少なくて「甘味が薄い」のか
実が熟していないから「酸っぱい」のか
何も分からないですよね?
全て「マズイ」のですかから。
味を正しく理解しないと塩を減らせばいいのか、砂糖を加えればいいのか分かりません。
また、調味料の問題なら改善可能ですが、もし実が熟れていないなら人間の手ではどうしようもないので今食べるのは諦めるしかありません。
どうマズイのか?
マズイ ← 解像度低/高 → 甘味が薄い
自分で改善可能か?
できない ← 解像度低/高 → 砂糖を増やす
このように、目の前の現状や自分の感情が「具体的にどうなのか?」の理解度が「解像度」です。
そして高解像度にすることで自分がどう対策するか、またはそれが自分では対策しようがないことなのかが分かります。
つまり、私が求人を見て「怖い」と感じたのは、
感情(味)を大まかにしか捉えられず(解像度が低く)、
「責任」という苦手要素(マズイ)に漠然と怯えていた。
と言えます。
責任が怖い原因3:実はトラウマが認知を歪ませているのでは?
さて、そんな感じで「自分は雑な捉え方のせいで怯えてたんだ」と理解したところで、私の不安の本質が少し見えてきました。
そこで改めて、自分が「どう不安なのか」「何を見てどう感じたのか?」をじっくり考えると以下のような言葉が頭から湧いてきました。
「社会が怖い」「契約が怖い」「人間が怖い」
「自分に出来るのか不安」「ちゃんとやれるのか自信がない」
「ミスが怖い」「私みたいな奴には務まらない」
・
・
・
「採用担当者に馬鹿にされるかもしれない!」
そう、ここで気が付いたですが、私が本当に怖いのは責任そのものへの恐怖ではなく
「お前みたいにマトモな職歴もねーやつ、うちで雇えるわけねーだろ。」
という自分の妄想が怖いのです。
原因1にもあるように、ネガティブな性格が後押しして実際に言われた訳でもないのに、
「私みたいな奴が面接に来たら笑われるんじゃねぇの??」
と勝手な妄想に一瞬にして取りつかれていたんですね・・・。よく考えれば多少のミスくらい大抵は怒られれば済むので大した責任ではないです。
はじめは「ミスが怖い(責任が嫌)」という小さな火種だったのが、
どんどんと大きくなり、
最後には大きな炎となり被害妄想に陥っていたんです。
しかも私はもともと新卒採用で失敗した口なので、面接恐怖症みたいなのもありまして。トゲのある言葉を言われたこともありました・・・。それが心の根底にあり、他の言葉を押しのけてやってくるんですね。
責任が怖いと感じたら問題を細分化しよう
このように、トラウマが生み出した妄想により「責任怖い!」になってしまった経験は皆さんもあると思います。
また、自己責任という言葉がやたら使われSNSで批判されてるのもよく見かけます。
Twitterで「前提条件を知らない他人に批判された」とか
例)投稿者はピーナッツアレルギーで「友人がふざけてピーナッツを食べさせようしたから縁を切った」とツイートしたらフォロー外の人に「そんなことで怒るな」とリプされた。
Instagramで「意図してないのに匂わせを疑われた」とか
※意図を名言せずそれとなく気付かせる手法。写真の隅に男性の腕を映り込ませてデート中であることを匂わせるなど、恋愛の場で多用される。
そういった嫌なエピソードに対して
「批判されてもインターネットなんて自己責任!嫌ならSNSやめろ!!」
みたいな風潮もあり、自分が経験していなくても「自己責任」という言葉にうんざりしている人も多いかと思います。
特に仕事に関する弱音なんかに対しては特に「嫌ならやめろ」という言葉を聞きます。
嫌で辞めて次の就職先は?
嫌で辞めて生活費は?
すごく無責任な言葉ですよね。なのに、なぜかそういうのを見ているとどんどん「自己責任」という言葉が自分の中に蔓延り、歪んでいって本来自分の責任ではない部分にまで侵食してしまいます。
そういう時は問題の細分化を行う事で浸食を防ぐことが出来ます。
例えば、会社に嫌なお局様がいるとします。
この場合の問題はどのような部分でしょうか?
問題1.同じ部署にいるので一緒に働かざるえない。
働く人材を管理するのは会社の仕事なので
「嫌なお局様がいる」のはあなたの責任ではありません。
問題2.会社の人に相談すると告げ口みたいで角が立つので出来ていない。
「嫌な状況に甘んじるている」のはあなたの責任ですね。
「お局が嫌なら辞めてしまえ!」では、
「マズイなら捨ててしまえ!」と同じです。
ですから、「全部私の責任だ!私が我慢すればいい!」と考えるのではなく
「お局様がいることで仕事の能率が下がっているのだから人事に相談してお局様を飛ばしてもらおう」
「お局様に嫌われているから、取り入って気に入られよう」
「お局様がいることで精神を病んでいるから診断をもらって休職しよう」
このように問題を細分化すれば、きちんと自分の責任の範囲での自然な対処法を考えられます。
「嫌ならやめろ」という低解像度な発言に惑わされてはダメですよ!自己責任は大雑把に使っていい言葉ではないのです。
そうでなければ、認知が歪み全て自分の責任の様に感じて、背負う必要のない物まで背負おうとしてしまいます。
連帯責任は人の為ならず。
今日の世界の状況はどんどんコンプライアンスに厳しくなっています。昔なら気にされていなかったような問題も今では大問題に発展することもあり、課せられる「責任」が昔よりも重くなっている様に感じます。そして自分は知らないとばかりに「自己責任」と口にします。
これでは「自分の決定で何かをする」のをためらう人が増えるのは当然ですが、これが世の流れなら適応しなくては生きていけません。
しかし、私は「自己責任」という考え方は人間社会において良くない影響を与えると考えています。
ハッキリ言って「自己責任」と口にする人こそが無責任です。
なぜなら、はるか昔から現代までヒトという種族は集団で生活することを生存戦略としてきたからです。
一人一人の種としての責任は何か?
それは「所属グループを守ること」にあると考えます。
他者を守る責任が全員に課せられており、
誰か一人がそれを守らなかった場合の責任は集団に課せられる。
守るというのは、単に「他者を害してはならない」ということではなく「弱者を救済する」という意味も含みます。
例えば、10人の狩人が一緒に暮らしていたとします。
10人で大きなマンモスを捕えている時、その内1人が怪我をして狩りが出来なくなったとしましょう。
もし、その1人を「自己責任だ」と言って見捨ててしまうなら
怪我人が出るたびに人数が減ることになります。
9人ならまだマンモスを倒せるかもしれませんが、7人ならどうでしょう?
見捨てられた人が皆を恨んで更に5人を怪我させるかもしれません。
人数が減りマンモスを倒せなくなれば、小さな獣しか狩れなくなり全滅は目前です。
現代の会社組織も同様ですね。
守るべき人材を守らなければ、会社はより良い働き手を失い最後には倒産してしまいます。問題のある人を監視し弱い人を守り強い人を労う必要があります。
人間の生存戦略の基本は連帯責任なのです。
そう考えれば、「責任」という言葉の重さが少し軽くなるように感じませんか。
自分が会社のお荷物で情けなくても、
同僚がサボってばかりで腹が立つのも、
「自分を含めたその他大勢の責任」だと考えれば負担は少しで済みます。
カム子の独り言
「毎日朝通勤すんのダルいし、ミスして怒られんの嫌だわ~」
って責任から逃げているチャットレディーの皆さん、
私もまったく同じこと思ってます(笑
たぶん、チャットレディーやってる女の子の半分くらいは
「怪我や病気で見捨てられた狩人たち」
なんじゃないかなって思います。
捨てる神あれば拾う神あり、とも言いますから
もしまだ、「やっぱり正社員で働きたいな」という気持ちが少しでもあるなら、
責任怖い問題をもう一度だけ自分の中で整理して、
昼職復帰を頑張ってみてはいかがでしょうか?
このようなnoteにサポートしてくださる酔狂なアナタ!私の生活費になります。市民税払います。