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「ひとりとは、贅沢な娯楽なのです」

タイトルにしたのは、自分が最近のTwitterで呟いていた言葉。え、すごいこと言ってるね?改めてそう思ったので、これは書き残しておこうと思った。

だって、ひとりって言葉、すごく寂しい印象があるようにおもう。人によるのかな?でも凡その「ひとり」という言葉が持つ意味って、「孤独」や「寂しさ」そんな意味を人間たちが勝手に紐付けている。

「ひとり」という言葉を掘り起こすとき、芋ずる式に出てくるのは、そういったネガティブな意味合いなのだろう。

でもそれもそのはずで、人間とはひとりで生きていけない生命体だ。よく考えてみれば、「ひとり」という言葉が生まれたのも、「ひとり」ではなかったからなのだろう。

世の中にずっと「ひとり」ならば、自分が「ひとり」だということにも気付けない。いつも「ひとり」で居るためには、やはり他人を必然的に要する。

稀に「ひとり」で生きている人はいるけれど、それもマイノリティだろうし、人間は「ひとり」で生まれてくることも、生きていくこともできない。

そんな愛おしい存在なのだ。

たとえば、ひとり、という言葉を辞書で引くと、

1 人数が1であること。一個の人。いちにん。「―に一つずつ配る」「乗客の―」
2 仲間・相手がいなくて、その人だけであること。単独。「―で悩む」「―でいるのが好きだ」
3 他の人の助けを借りず、その人だけですること。独力。自力 (じりき) 。「―ではなに一つ満足にできない」「―で解決する」
4 配偶者のないこと。独身。「いまだに―でいる」

goo国語辞書

と出てくる。「ひとり」自体に意味はないのだけど、例文を見ているとやっぱりネガティブに扱われやすい。それを「贅沢な娯楽だ」と言い切った私の言葉についてもっと掘り下げたいと思った。

「自立」していることに対して、どこかの他人は寂しいと感じる。ある時には、それはパートナーかもしれない。親御さんが「自立」する子どもに寂しさを抱くように。

だから「ひとり」は、どうなったら贅沢な娯楽になるのか、そんなプロセスを解体してみたいと思った。

「ひとり」であることと、「孤独」であることはちがう。

10代や20代の前半まで、自分はどうもひとりでいることが苦手な人間だった。近年でも大切な人を亡くした時に、ひとりでいることが難しくなった。

今ではひとりでいることも多くなったのだけど、きっと周りから見たら、いつも私は人に囲まれているように見えるのだろう。

でも近年の理由と、10代の時に抱いていた「ひとりで居れない」には少し違いがあるようにも思う。キーになるのはやっぱり「孤独」、そして「孤立」だろう。どちらも心の感覚やあり方なのだろうけれど。

10代の時と、今とで、違うのは、選択できるか否かでしかない。

私は選択して「ひとりでいる」こともできるし、「だれかといる」こともできるようになった。その違いなのだろう。

「ひとり」がどこか寂しい、どこかひんやりとした印象がある人々はきっと、選択肢というそのカード自体が手元にないのだと思う。カードは持っていないと、引くことも、選ぶこともできないのだから。

そう思うと10代から、私は手札を黙々と増やしていったようにおもう。とは言っても自分の持ち札を、その関係性を増やすことは、そんなに容易いことではない。

手から零れ落ちるカード。するりと奪われていったカード。両手では持ちきれなくて、手放したカード。

私の手札はおそらくいつも両手で持てるぎりぎりだ。その中から選び放題だから、ああ、なんて贅沢なのだろうと思う。「ひとり」というカードは一枚しかなくて、独立していて、きっとジョーカーのような存在だ。

ひとりとは、やっぱり贅沢な娯楽だ。

私が最近、贅沢な娯楽を愉しんでいた時のことを書いておこうとおもう。まずそもそも「たったひとりの時間」というものが私は少ないのだと思う。物理的に一人だとしても例えば現代にはzoomだってあるし、無料で通話もし放題だ。

「誰かしらと繋がれる時代になった」とは、都合のいい解釈に過ぎないようにも思う。こんなことを言うのは、私がひねくれているからだろうか?

インターネットの普及に伴い、やっとみんな気付き始めたように思うのだ。ずっと繋げられているストレスに。ずっと他者の目に晒されることや、日常に他人の目が入ることの不愉快さに。常に社会が干渉することに気付き始めただろう。

そう思うと人間は、やっぱり贅沢だ。

自分から繋がりに行くくせに、それに勝手に疲れているのだから。私もその一人なのかもしれないと思った。

小さな選択の積み重ねで人生は大きく変わってしまう。

週に何度か、仕事で外に出る機会がある。その時にいつも帰り道で、自分のための外出時間を作る。仕事だけのために私は外に出た、と思いたくないのだろう。

私は自分の仕事が心底好きだけど、そんな仕事だっていつも楽しいわけではない。仕事で嫌々外に出ないといけないことだってある。でも、私はその「仕方なくやっている」みたいな感覚が嫌なのだと思った。

それなら私は「自分のために今日は外に出ているんだ」と納得して外に出たい。そうして疲れている時ほど、仕事終わりに寄り道をして帰るようになった。

行きの電車の中で、近くの美味しい珈琲屋さんか、喫茶店か、パン屋さんを探す。大抵は珈琲屋さんに行って、珈琲豆を買って、一杯だけなにもせずにただ珈琲を飲む時間にしている。

ぼんやりと一杯の珈琲を飲んで、手元にある珈琲豆を眺めながら、又はお店に並ぶ珈琲豆を見つめながら、明日からまた少し贅沢な朝を迎えられるのだなと思うととてもしあわせな気持ちになる。

翌朝、ミルで珈琲を挽いている時にもやっぱり「昨日は疲れたけど、買いに行ってよかったな」とあたたかな気持ちになる。

日常は、小さな選択の積み重ねだ。時々、その小さな選択を何度も間違えて、大きな失敗を招いている人を見る。本人だけの力では、もちろんどうにもならないことばかりなのだけど、それでもそう感じる時はたくさんある。

そして考える。自分は小さな選択を間違えていないだろうか、と。小さな選択を間違えるとき、人はその小さな間違いに気付けない。大きな失敗になってから後悔をする程度だ。

私も何度もやってきた。大きな失敗になって後悔をするというのは、あまりに不毛だ。後悔をするという行為はつまり自分の人生に責任を取れなくなっている、という状態だとおもう。もう失敗しているし、どうにもならなくなっているのだから。

それを成功に出来る日が来るのにはきっと、あまりにも体力もお金も、時間だってかかる。だから、そもそも小さな失敗から常に点検しないといけない。

自分の人生を作るのが、私は好きだとおもう。好きなことは、大体得意なことだったりするので、私は得意だという自負もあるのだとおもう。

珈琲の時間も好きだし、ひとりの休日に、お気に入りの本を書店に受け取りに行くのだって、好きな時間のひとつだ。

宝物を手にしたような気持ちで本を受け取り、大切に大切に鞄に入れて、その鞄の中を歩きながら時々覗いてみる。その時に私は、気持ちがどうしようもなく高鳴って足取りが軽くなるのを感じる。その宝物と一緒に、近くのお花屋さんを何件か巡ることにした。

お花屋さんも私はとても好きだ。珈琲を飲みながら、煙草を吸う時間も好きだったけど、もう煙草はやめたいな、そう思いながら歩いていた矢先のこと。お花を眺めながら、季節を感じる。多くの花に囲まれていると、ある張り紙が目に留まった。

お花屋さんで、毎日一輪の花を受け取れるサブスクが始まったと書かれていた。そうだ、毎日の煙草を手放して、毎日一輪の花を受け取りに来よう。煙草を吸っている時間があるなら、花を受け取りに来る時間だって取れるはず。

私はすぐにお店の人に聞いて、始める日を決めた。

そうしてまた私はお店を出て、歩き出した。お花のことを考えながら、宝物を入れた鞄を持って。

歩いてるうちにお魚が食べたくなって、お魚屋さんに行った。気のいいお店のお兄さんとおしゃべりをしていると、近所の美味しいお店をいくつか教えてくれた。美味しいお魚も手に入れて、なんて贅沢なんだと思った。

こうやって些細な選択で、生活はいくらでも贅沢になるとおもった。そして、やっぱり「ひとり」とは、贅沢な娯楽だとおもった。

私の世界は、さまざまな色で溢れている。私はこれからも贅沢を味方につけて、人生を彩っていこうとおもった。

さて、みなさんの贅沢な娯楽は、どんなものですか?


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