やさしくなりたい≒納得したい
もっとやさしくなりたい、です。
おくり化粧の現場で、ときどき心おだやかならざる時があるのです。
立ち会われるご遺族さまがお互いになぞの遠慮を発揮しすぎていつまで経っても席についていただけない時。
みなさま席につかれて「さぁはじめよう」というところでおもむろにカメラを取り出し立ち上がって撮影をはじめる方。
お耳が遠くなかなかこちらの言葉が伝わらず、ともに参列されているご親族のサポートも得られず進行が困難な時。
心がせまいというか、余裕がないというか。
でも施行時間は限られていてその間に行うべきことはすでに定められている。
そんな状況におちいるといつも、ちゃんと自身の表情や所作が保てているかひどく不安になります。
仕方がないこともありますし、対策を講じていくべきところももちろんあります。
ただ、なぜいちいち反応してしまうのか、と考えた時にひとつ思ったのは「わからないから」なんです。
分別がつく年齢を迎えて以降、親族の集まりなどに顔を出したことがない。
まわりの様子をうかがい、倣うことが正解だと思い込んでいる。
音が聞き取りづらいという身体症状をいまのところ感じていない。
など、いまの自分には「理解できない」と感じることに対して反応している。
それらは裏をかえせば、自分の考えを押し付けているだけともいえるかもしれない。
極端なことを言うと、きっとこの世に「唯一解」なんてないかもしれないですよね。
みんなおなじなんてことはないのに、自分がこうだから相手もそうだろうと勝手に思い込んで決めつけてかかるからそうやっていちいち反応してしまう。
その思い込みや枷をはずしてもっとフラットに物事を考えられないか、というようなことを考えています。
その一端として、たとえば耳栓をして街を歩いてみたり、人と会話をしてみたり、映画を観てみたりしたい。
そうしたら音が聴こえにくい不安や焦りなどといった感情がすこしはみえてくるかもしれない。
「理解」というと「ほんとのところなんて当人にしかわかるわけないじゃん」と自分でおもってしまうのであまりその言葉はつかいたくないのですが、自分の身をもって体験した出来事なら自分の感覚というのは手に入るから、自分の身に置き換えて考えやすくなる。
そうしたらもうすこしまわりの人にやさしくなれるかもしれない。
そんなふうにおもいました。
いろんなことをそのまま、フラットにうけいれられる度量の深さというか、ひろさがほしいです。
また、お目にかかれますように。
おくり化粧師 Kao Tan
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