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末期ガンで母が他界してから、私の人生は大きくカーブした

※ガン闘病中の方は読むのをお控えください。


「ママ、何もないってことはないわよ」
検査結果を待つ病室で、母は言った。
母は大の病院嫌いで、何年も健康診断を受けず、体調不良があってもその原因を調べてみようともしなかった。
一度ぎっくり腰をやってからずっと腰が悪く、外出する時はいつも私がついて行って荷物を持ち、クッションを入れた手提げを持ち歩いていた。椅子に座る時に背中と椅子の背の間に挟んでおかないと腰が痛んで座っていられなかったからだ。
椅子に座る時と立ち上がる時、私が椅子をひいてあげ、母がなにか落とせばさっと拾ってあげた。

そんな生活が5年ほど続いていたが、とうとう母が病院に行き検査を受けた。検査結果より先に、すぐ入院するよう医者から言われた。
私は一人家に帰り、夜寝るときに母を思って泣いた。母は今、一人暗い病室で灰色の天井を見上げてどんな気持ちでいるのだろうか。

医者から、末期癌だと言われた。ステージ4の大腸癌で、あちこち転移しているとのことだった。
その口調から、助かる見込みは低いとわかった。
その日から、私は癌についての本やネットの記事を読み漁った。癌を克服した人達がこんなにいるのだ。同じようにすればきっと母だって助かるはずだ。
その日から毎朝人参ジュースを作って母に飲ませた。お茶にして飲むと良いという、玄米を真っ黒に焦がした粉も取り寄せた。蒟蒻が身体の毒素を吸うと書いた本があったので、茹でて温めた蒟蒻を母のお腹にあてた。これは臭いので勘弁してほしいと母に言われた。

母の抗がん剤治療が始まった。
薬は大きく飲み込むのが大変そうだった。しばらくすると、ポートを埋め込むことになった。
家で抗がん薬を投与するために、鎖骨の下あたりに投与の入口を作るのだ。
母の身体の一部に金属が埋め込まれた姿を見た時はショックだった。でもそれを顔には出さないようつとめた。
看護師さんから、家での薬剤の投与の仕方を教わり、その場で試しにやってみた。私はしっかりとした表情と声色を作り、看護師さんの教え通りの手順でテキパキと作業した。看護師さんからは、こんなにスムーズにできたご家族の方は初めてですと驚かれた。
バッチリだよ、と私は母ににこっと笑ってみせた。

母はホスピス病棟に移ることになった。
どんどん痩せていき、せん妄の症状が出始めた。
何も無い空間を指して、そこに大事なものが入っているはずだから開けて確認してほしいと私に言った。私は引き出しを開けるジェスチャーをして、入っているよ、大丈夫だよ、と言った。
母は無言でその空間を睨み続けていた。
ある日病室に入ると、不思議そうな顔で私の顔を見つめ、「ずいぶんライラちゃんに似てるわねぇ」と言った。私は喉に砂が詰まったように声がうまく出せず、「そう」とだけ言った。

ある日を境に、母は眠り続けた。
病室には、アロマの加湿器をつけ、母の好きだったジャズをかけた。目を閉じて口を開けて横たわる母が恐ろしかった。母は今意識はあるのだろうか。寒くはないか、暑くはないか。どこかに痛みやかゆみはないか。喉が乾いてはいないか、空腹なのではないか。苦痛があるのに伝えることができないのだとしたら。そう考えるとこわくてたまらなかった。

担当医から、もう間もなくですので覚悟しておいてくださいと言われてから、私と兄は母の病室に泊まった。
その日のうちに母は旅立った。逝く間際、それまで眠ったように静かだった母の呼吸が急に激しくなった。はっ、はっ、はっ、と何度か荒く呼吸した後、大きく空気を吸い込むと、それきり息を吐くことはなかった。兄は母を呼んで泣いた。
私は何も言わなかった。ほっとしていた。母はもう、苦痛から解放されたのだ。

母が生きている頃、私にとって死とは、長くまっすぐに伸びた先にある人生の終着点であり、それは確かにあるものの遠すぎて見えない存在だった。
母が亡くなってから、その長い道は大きくゆっくりと曲線を描き始め、その終着点は私の隣におさまった。人生の長さは変わらないものの、常に隣りにいて存在を感じるものとなった。

人は死ぬ。
誰もが知っていることだが、それを身を持って感じたことがある人間はそう多くないだろう。そしてそれは、後悔なく生きよう、と良く作用することもあれば、その反対の場合もある。
身近に感じすぎて、なぜ自分は生きているのだろうという考えが頭から離れないでいる。自分は死ぬ。間違いなく、必ず死ぬ。40も過ぎれば、そう遠くない将来のような気さえする。

時々、大声で叫び出したい気持ちになる。
自分が自分でない感覚になる。
そうして、私は生きていく。



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