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Reflections on The Uses of Argument『論述の技法』省察録(8)

さて、『論述の技法』でトゥールミンは何を主張していたのか、を詳しくみていきたい。テキストとしてはPreface to the Updated Edition 2002年の後半を使う。

いま論文の書き方の本を書いている専門家は哲学の論理学の研究者である。論文を書くときに論理学の方法だけを使って良いのか?とトゥールミンは『論述の技法』で思考を展開してみせる。1957年の前書きを読むと、自信のほどが見て取れる。省察録(5)でこのあたりの事は詳しく書いた。

そして哲学者の文章すなわち論述は論理学だけではなくrationalityが必要だと主張する。rationalityの訳は難しいので、次回以降の後回しにしていまはrationalityとしておこう。

自分の主張が停滞する哲学界を大きく変えるとおもって出版するが、無視されてしまう。そのあたりを2002年のPrefaceではかなり詳しく書いているので追いかけてみよう。

In no way had I set out to expound a theory of rhetoric or argumentation: my concern was with twentieth-century epistemology, not informal logic.(viii)

私は決して修辞学や論述行為(argumentation)の理論を説明しようとしたわけではない。私の関心は20世紀の認識論であり、インフォーマルロジックでもなかった。

インフォーマル・ロジックとはStanford Encyclopedia of Philosophyによると、


The study of logic has often fostered the idea that its methods might be used in attempts to understand and improve thinking, reasoning, and argument as they occur in real life contexts: in public discussion and debate; in education and intellectual exchange; in interpersonal relations; and in law, medicine and other professions.

とある。ざくっっと訳しておくと、

論理学を公的な議論や討論、教育や知的交流、対人関係、法律や医学、その他の職業など、実生活の文脈で生じる思考、推論、論述を理解し改善するために使おう、という試みである。

加えて、インフォーマル・ロジックは、この目的に適した論理学を構築する試みである、論述、証拠、証明、正当化に関する説明を、現実の議論の分析における有用性を強調する道具的な展望と組み合わせる。とある。倉田剛さんがわかりやすい教科書『論証の教室 Introductory lectures on Argumentation』を出している。ガチガチの論理学者の出している文章の書き方よりは柔軟だが、それでも論理学の話である。ちなみに論理学とrationalityを考慮すると、この本の日本語は 『論述行為技法の教室 入門編』となるが実際の内容は論理学への入門である。


インフォーマルロジックでは、具体的にどのような事をおこなうかというと、

Informal logic is an attempt to build a logic suited to this purpose. It combines accounts of argument, evidence, proof and justification with an instrumental outlook which emphasizes their usefulness in the analysis of real life arguing. Blair 2015 identifies two key tasks for the informal logician: (i) the attempt to develop ways to identify (and “extract”) arguments from the exchanges in which they occur; and (ii) the attempt to develop methods and guidelines that can be used to assess their strength and cogency.

インフォーマル・ロジックは、この目的に適した論理を構築する試みである。論述、証拠、証明、正当化に関する説明を、現実の論述の分析における有用性を強調する道具的な展望と組み合わせるのである。ブレアは、インフォーマルロジックの専門家に課せられた2つの重要な課題として、
(i)議論が発生するやり取りから議論を識別(および「抽出」)する方法を開発する試み、および
(ii)議論の強度と説得力を評価するために使用できる方法とガイドラインを開発する試み、を挙げている。

とある。Blairの論文も紹介しておこう。
Blair, J. Anthony 2015. “What Is Informal Logic?” Reflections on Theoretical Issues in Argumentation (Argumentation Library, Volume 28), Frans H. van Eemeren and Bart Garssen (eds.), Dordrecht: Springer.

この論文が載っているのはこんな本だ。論述行為(argumentation)は大きな研究分野になっていることが解る。

この説明はトゥールミンの言っていることと非常に似ている。どこが違うのだろうか。トゥールミンは続けて書く。

Still less had I in mind an analytical model like that which, among scholars of Communication, came to be called ‘the Toulmin model’. Many readers in fact gave me an historical background that consigned me to a premature death. When my fiance was reading Law, for instance, a fellow student remarked on her unusual surname: his girlfriend [he explained] had come across it in one of her textbooks, but when he reported that Donna was marrying the author, she replied, ‘That’s impossible: He's dead!’

これもざくっと訳しておく。
Still less had I in mind an analytical model like that which, among scholars of Communication, came to be called ‘the Toulmin model’.
また、コミュニケーション学の研究者の間で「トゥールミン・モデル」と呼ばれるようになった分析モデルのようなものを考えていたわけでもない。

じゃあ何を考えていたのか?自分の体験から話をすすめている。Donnaというトゥールミンの四人目の奥さんの話しだ。

私の婚約者が法律の勉強をしていたとき、と続く。reading Lawというのは、英米法の国で、ロースクールに行かなくても、弁護士などの事務所で働くこと弁護士試験を受ける資格ができるところがある。亜米利加合衆国のカリフォルニア州などがそうした場所だ。で、勉強仲間が彼女の珍しい名字(Tumlin)に気がついた。すると、仲間のガールフレンドが読んでいたテキストにその名前があるという。そこで、勉強仲間がフィアンセのDonnaが、この本の著者と結婚するよ、と彼のガールフレンドに言ったら、「それは無理だわ。彼はもう死んでるから」と答えたという。

My reaction to being (so to say) ‘adopted’ by the Communication Community was, I confess, less inquisitive than it should have been.

つまり、一緒に法律を勉強していた人のガールフレンドが読んでいたのが作文術の本であり、そこで『論述の技法』が紹介されていたわけである。コミュニケーション技法をおしえるコミュニティにトゥールミンの方法が採用されていたわけだ。白状するが、そのことに対しても、本来感謝するべきなんだろうが、そのころは気にもしていなかった、と文章は続く。

一方で、

Even the fact that the late Gilbert Ryle gave the book to Qtto Bird to review, and Dr Bird wrote of it as being a “revival of the Topics" made no impression on me.

ギルバート・ライルに『論述の技法』をわたして、ライルはオット・バードに書評を依頼し、バードは「この本はアリストテレスの『トポス論』の再来だ」と書いてくれていたのに、それに感謝することもできなかった、と書く。

Only when I started working in Medical Ethics, and I reread Aristotle with greater understanding, did the point of this commentary sink in. (The book, The Abuse of Casuistry, the scholarly research for which was largely the work of my fellow-author, Albert R. Jonsen, was the first solid product of that change of mind.)

だが、医療倫理の研究をしているときに、アリストテレスの仕事をもう一度勉強していると、アリストテレスは形式主義者ではないことが解ったという。
Taking all things together, our collaboration, first on the National Commission for the Protection of Human Research Subjects, and subsequently on the book, left us with a picture of Aristotle as more of a pragmatist, and less of a formalist than historians of thought have tended to assume since the High Middle Ages.

中世以降の思想史家が想定しがちな形式主義者としてのアリストテレスではなく、プラグマティストとしてのアリストテレス像があらわれてきたのだ。

となる。

Casuistryは決疑論と訳されており、まことしやかに、過度に微妙で誤解を生むような論述を行うことで、道徳的な問題に関連して巧妙だが根拠のない推論を行うことを意味する。

次の文章は、前回、前々回とアリストテレス研究の現在をみてきたので、言っていることはわかるのではないか?アリストテレスの著作の日本語訳をのせてみた。

True, the earliest books of Aristotle’s Organon are still known as the Prior and Posterior Analytics, but this was, of course, intended to contrast them with the later books on Ethics, Politics, Aesthetics, and Rhetoric. (The opening of the Rhetoric in fact takes up arguments that Aristotle had included in the Nicomachean Ethics.) So, after all, Quo Bird had made an important point. If I were rewriting this book today, I would point to Aristotle’s contrast between ‘general’ and ‘special’ topics as a way of throwing clearer light on the varied kinds of ‘backing’ relied on in different fields of practice and argument.

確かに、アリストテレスの『オルガノン』初期の書物は、現在でも『先行分析学』『後行分析学』と呼ばれているが、これはもちろん、後の『倫理学』『政治学』『美学』『修辞学』との対比を意図してのものである。(実際、『修辞学』の冒頭では、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』に盛り込んでいた論点を取り上げている)。

つまり、バードは書評において、アリストテレスもトゥールミンと同じように、「一般的な」話題と「特別な」話題とを対比させ、実践や議論の分野によって依拠する「裏付け」の種類が異なることを述べていた、という。

It was, in the event, to my great advantage that The Uses of Argument found a way so quickly into the world of Speech Communication. The rightly named ‘analytical’ philosophers in the Britain and America of the late 1950s quickly smelled an enemy.
このように、スピーチココミュニケーションの世界などでもトゥールミンの方法は広く認められたのだが、1950年代のアメリカとイギリスの分析哲学者(つまりは論理学者)達は、この本は論理学の敵だと素早く認識した、という。

さて、Speech Communicationとは口頭で自分の主張を述べ、聞き手に理解してもらう、というコミュニケーションについて研究し、実践する活動である。いわゆるスピーチをするときにトッピックとして何を選ぶか、どのようにそれを口頭で伝えるかを検討する領域で、Warren Weaver と Claude Shannon によって開発された線形パブリックスピーキングモデルを採用していると言われる。以下のような図である。

https://digiaide.com/wp-content/uploads/2021/12/Shannon-and-Weaver-Model-of-Communication.jpg


このモデルは、通信技術のおけるシャノンの功績は置いておいて、普通にコミュニケーションの問題を扱うときには前提とされているが、実際「きちんと」コミュニケーションすればこの図の通りになる、という考え方そのものが表現という行為にそぐわないと、最近の研究では言われている。トゥールミンの考えた方法もこの枠組みで解釈されて、初等教育・中等教育に広く広まっていった。ディベートや論理的に話すとか、そういった事を教えるというカリキュラムがアメリカで普及を始める。そのときにトゥールミンの『論述の技法』を参考にしたコミュニケーションの教科書が多く出版されていた。

しかし、一般で有名になってが、英米流の哲学者はトゥールミンの本に興味を示してこなかったという。

Yet the book continued to sell abroad, and the reasons became clear to me only when I visited the United States in the early 1960s. As a result, it would be churlish of me to disown the notion of ‘the Toulmin model’, which was one of the unforeseen by-products of The Uses of Argument, has kept it in print since it first appeared in 1958, and justifies the new edition for which this Preface is written, more than 40 years on.

しかし、この本は海外でも売れ続け、その理由は1960年代初頭に米国を訪れたときに初めて明らかになった。『論述の技法』のコミュニケーションコミュニティにおける成功は予期せぬ副産物の一つであり、1958年の初版以来、版を重ね、40年以上を経てこの序文が書かれた新版を出版するに当たり、「トゥールミンモデル」という概念を否定するのは、礼節を欠いた振る舞いだと思う。

と述べていく。そして次の文章で締めくくる。

Some people will remember David Hume’s description of his Treatise of Human Nature—stung by its similarly hostile early reception—as hav­ing ‘fallen still-born from the press’. One could hardly ask for better company.

ヒュームがTreatise of Human Nature『人間本性論』を出したときに、誰も相手にしないか敵対的な反応だった。それにたいしてヒュームは「出版社からまだ生まれたばかり as hav­ing ‘fallen still-born from the press’.」と評した。ヒュームが『自伝』の中で、評判の悪かった『人間本性論』について論じながら、この本を「信奉者の間でざわめきを起こすこともなく、出版界から死蔵されてしまった」と書いていることに、『論述の技法』をなぞらえている。実は、ヒュームの述べたこともトゥールミンの主張したことも同じである。哲学は論理学だけではなく、rationalityについても考えを及ぼさなくてはいけない学問なのだ。ではrationalityと論述がどのように関係していくのか。次回から本書のイントロダクションの詳細な読みに進みながらこの問題を学んでいきたい。

まとめ
『論述の技法』はインフォーマルロジックの本ではない。文章を書き、なにが正しいかを検討する方法としてrationalityを前に出す哲学なのである。






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