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情報量と時代。


平安時代の人の一生分の情報量を、現代人は、一日で処理しているってことをどっかで聴いて、ゆったりとした過ごし方について考えてみたり。

「平安時代ねぇ……」

庭とかで、なにか眺めたり、座ったり。そんなイメージ。
昔の人は、もっと話すのが遅かったとも聞くし、で、現代と。

情報量っていうのは、なんだ。
ずっと、何かしらの展開と選択が次から次へと。

で、ゆっくり過ごすことについて考える。
それはそれで、退屈だったりするわけで。

例えば、テレビも映画もない時代は、小説なんかが人気があって、暗がりの照明の下で、夜は虫の声とか聴こえる家で、本を読んで楽しんでいる。ラジオから聴こえる歌声。
そんな時代を想像することでも、まあ、随分と「ゆっくり」な時間が感じられたり。
で、映画の普及、テレビが家庭に入り、レンタルビデオ、ネット。

今の時代から、「小説」を読もうと考えてみたりするとき、「しんどく」なるのは、とにかく、選択肢がいっぱいあって、「暇な時間を潰す楽しみ」としては、刺激も少なく、そりゃ、漫画、映画、テレビ、アニメ、ゲーム、YouTubeだよなぁと。

それぞれの時代の「王道」的な、文化もやっぱり入れ替わっていってるし、あんなにテレビで自由を感じさせ幅を利かせていた「お笑い」ですら、窮屈な縦社会を感じさせ、もっと身近で新しいものが生まれていく。
「これだ!」
みたいな勢いで、世界を席巻しそうなものも、ちゃんと、次の娯楽に飲み込まれていく。
と、いうか、楽しみも、情報も、増えていく。
小説も、映画も、ネットも、ちゃんとある。

僕は、頭の中で、平安時代の情報量について思いを巡らせ、
ゆっくり歩き、ゆっくり話し、揺れる葉っぱにですら、楽しみを見出そうとするような時間の流れに、そんな生き方もあるわけで。

「平安時代ねぇ……」

僕は、ゆっくりと深呼吸をして、バスの到着時間に間に合うように、走りだした。



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