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安全なこっち側の世界で卵の如く(散文)

 9月、台風がきた。金曜日

 雨は言われていたよりもひどくなくて、少し肩透かし。被害が無くて喜ぶべきだ、わかっている。喜んでいるしホッとしている、けれど少しだけ残念に思ってしまうところもあり、私の大人の部分が罪悪感を抱える。私の中にはまだ初めての雷に興奮したあの頃の、保育園児の私が生きている。脈々と。

 昼。歯医者に行こうと外に出たら寒くて、出掛けに部屋に戻ってシャツを羽織った。東京で真夏日じゃ無いのは2ヶ月ぶりだと、テレビが言っていたのを思い出した。

 前回虫歯はないと言われたので、気楽。なんちゃらコーディングのために歯医者に行く。塗るだけでしょ。と思ってパカっと開いていた口は何やら塗られた後に、先生によっておもむろにドリルを突っ込こまれて、思わぬ場所を削られて(思わぬ場所に虫歯があったようで)、いたい、聞いてないよ。かなり凹む。誰を恨むべきなのか。チョコ好きな現在の自分か、歯磨きをおざなりにした保育園児の私か。

 夜。久しぶりに窓を開けて生活している。

 涼しくて、鈴虫の音が開けた窓からリンリンと聞こえて、それは、情緒的…というよりも、え?バルコニーに居ないよね?いる?というぐらいのボリュームで恐怖だ。
 機密性の高いマンションという箱の中で日々生活して居るので、昨日までも居たのか(鳴いていたのか)、今日から(鈴虫は)いるのかと、外の世界にとても疎い事に気がついた。

 昼間に削られた歯がズキズキと痛む気がして、リンリンとズキズキが抜きつ抜かれつ絶妙な旋律を奏でていて(いる気がして)、ファントムペインかもしれないけれど(ファントムであってくれと願う)。秋の情緒を楽しむすべもない。

**

台風が去り際に涼しさだけを残して行った土曜日

 朝から、何を面倒な事をしているんだと思いながらエッグベネディクトを作っている。

 なんて面倒なと思いながら、オランデーズソースを湯煎しながら混ぜ。
 なんて面倒なと思いながら鍋の湯をかき混ぜながら卵を落としポーチドエッグをつくる。
 卵を浮かべたお湯をくるくるとかき混ぜる。くるくるはぐるぐるになって、そのうちぐるんぐるんになって、混ぜていたスプーンが鍋の淵に引っかかり、放射線状に湯が飛び散って、飛び退く。キッチンがびしゃんびしゃんになった。
 ひっくり返りそうになりながらもぐあんぐあんと元の位置に戻った鍋の中をそっと覗いたら、卵は何事もなかった様にゆったりと湯に回されて丸くなっていた。ここにも、中と外の世界がある。

 エッグベネディクト。作るのは面倒なのに食べるのはあっという間のエッグベネディクト。
 2.3回しか食べた事が無いので真偽不明のエッグベネディクト。
 エッグベネディクト。エッグ・ベネ・ディクト。語呂が良すぎて何度も口の中で呟きながら転がしていたら、ふと、昨日の歯の痛みが消えている事に気がついた。

 昼、朝食の片付けをしているとうっすらと汗をかき始めた。夫がエアコンをかけて窓を閉めた。
 また、世界が閉ざされていく。

「外もう29℃超えてるって」夫が言う。
「鈴虫もびっくりしてるね。えっ秋じゃなかったの?って、オレ昨日鳴いちゃったよって」

 閉ざされたこちら側の世界で鈴虫の気持ちを慮った。

***

 外の世界では某芸能事務所の話が取り沙汰されている。加害者・被害者という言葉が飛び交い、記者会見は豪華な(事務所だけでは無く、テレビ局の、マスコミの、見ていた私達の)スケープゴートにも見えて、全貌を把握している訳でも特別に誰かを推している訳でもないけれど、モヤモヤしてしまう。どこまでが被害者で誰からが加害者なのか。こんな言葉はそぐわないと思いながらも、所属タレントへのセカンドレイプという言葉が頭をチラつく。

 閉ざされた家の中で、安心に卵の様にクルクルと回りながら、傍観する私は、少しでも気を抜いてしまったら、私たちは加害者にもなりえてしまうと、恐れている。

ああ、歯が痛み出した。

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