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藤田先生に救われた

いじめ(らしきもの)を受けていた事がある。
いじめだったのかどうかはわからない。
私には、小学4年生の一年間の『友達』との記憶がほぼ無い。

4年生の時、母の薬局の移転に伴って転校をした。

なぜこのタイミングなのかと母に聞いたところ、「お兄ちゃんが中学に上がるから」と返ってきた。
『背の小さいお兄ちゃんは転校なんかしたらいじめにあうかもしてないけれと、普通サイズのあなただったら大丈夫。』という意味だ。
背の順が一番前の兄と前から3番目の妹の何がそんなに違っていたのか、全然分からなかったけれど。
今考えても全くのナンセンスだ。背が小さい兄はスイミーの様に、当時から力強く狡猾に、周りを味方につけながら『違う』ことを武器に、生きていたというのに。

母という生き物は異性の子供にいつまでも過保護で同性の子供には時にシビアだ。
おそらく同性の場合、自分と同一視して『自分だったら大丈夫だから大丈夫』と思うのかもしれない、確かに母なら大丈夫であったであろう。母は誰とでも直ぐに友達みたいに気安くなるタイプだ。そしてコミュニケーション能力において、兄は母に似ているし私は人見知りの父に似ている。

母の予想どおり(対象が兄では無かったけれど)私は、新しい場所に馴染むことができなかった。

当時の私は、圧倒的に経験が足りなかった。それまでは街の少し外れの住宅地にある、大きなのんびりとした学校に通っていた。転校していった人は何人かいても、転校してきた人は周りいなかった。そう私には転入生のお手本が無かったし、母の仕事の関係で、子供会や町内の子供の集まり、ラジオ体操にすら参加した事が無かった私は、違うコミュニティーに飛び込む経験も無かった。

転校当初、私は普通に学校に行ったと思う。学校で普通に過ごし、普通に授業を受ける、なりたい係に普通に手を挙げ誰かと希望が被ったらじゃんけんをする。転校前の学校での自分とそう変わらない自分。
話しかけられたら答えるけれど、少し人見知りがあり自分から話しかけることは無かったかもしれない。

もちろん知ってる人が1人もいない環境で、私の心はいつも震えていたけれど、幸か不幸か表面上は常に堂々と、そして少し大人っぽく見える。そういうタイプの子供だった。

『生意気だ。』これが私の評価だった。
新参者なのに生意気だ。

各学年2クラスしか無い転校先の学校は、その県最大の駅のすぐ裏つまりは都会にあり、校舎も校庭も今までいた学校よりも2周りほど小さかった。
クラスメイトはお洒落で大人っぽく、公園の木の上からひとりで空を見ている様な人間はだれも居ない様に見えた(そういう遊びを私はよくしていた)。

私の席は窓側から3列目・前から2列目、お昼前に日向と日陰の境目になるぐらいの場所だ。
校庭には学校なのに遊具があって、転校前の私はそれにひどく憧れたのだけど、私が入った頃にはすでに使用が禁止されて、赤いロープがぐるぐると張られていた。

そういう無機質な物ばかりを覚えている。

ひとクラス25人の教室の中では、皆(旗から見れば)仲が良く。私はいつもいつもひとりだった様に思う。

5月、もう1人の転校生が来た。
彼女は転勤族の子供で、いわば転校生のプロだった。
彼女をみて「なるほど」と思ったのを覚えている。彼女はいつも少し申し訳なさそうな顔をして、俯き、下手に出て最初は遠慮する。そしてここぞという時ににっこり笑うのだ。(そういう風にわたしには見えた)
一度でも見ていたら、せめて同じタイミングでの転校だったら、私は彼女を完璧に真似ることが出来たのに。なるほど私が悪かったのだな。と思った。

とにかく私はその新しいコミュニティーから見事に弾かれた。
積極的に何かをされる訳ではない。帰り道であったら避けられる、同じ道を歩いていたらついてこないでと言われる(私の通学路でもあったのに)。たまに朝の登校に誘われた雨の日、待ち合わせ場所には誰も来なかった。クラスで話に入れてもらえない。クラスでグループに入れてもらえない。

これは、いじめだろうか?
いじめだったのだろうか?
彼女や彼らの立場に立ってみると嫌なものを拒否するのは当然の権利だ。
新しいコミュニティーに誰かを入れるのは、入れる側の好意が第一にあるのだから。
今現在でも私は『いじめにあっていた』と断言できないでいる

悲しい顔をするべきだったと思う。泣けばよかったのかもしれない。
けれど元来いじっぱりで、泣くのをよしとしなかったし。誰に対してだか『こうされている』と気付かれるのが恥ずかしかった。(学年みんながおそらく知っていたと言うのに)
だから私は平気な顔をした。平気な顔で1人でいた。
平気な顔をして授業を受け、平気な顔をしてお楽しみ会(年に何度か開催され、グループを作って踊りなどを披露する)ではたった1人で歌を歌った。1人は私だけだった。(その頃5月の転校生は完全にあっち側の人間だった。)

朝はいつも母との戦いだ、「学校に行きたくない」という私と、「絶対に行きなさい」という母。時に引きずられて時に抱えられて、母は私を学校に放り込んだ。その年私は皆勤賞をとった。

私の母は、愛情豊かなのだけれど本当に母親らしくない人で。(後に母親となった兄の奥さんを見て気が付いた)
当時よく肩を掴まれてこう言われていた。
「イジメられるぐらいならイジメる人間になりなさい」
・・・とても過激だ。

とにかく、毎日引きずられて学校に行きながらも、小学4年生が終わる頃には何人か話す人も出来た。頑なに文句や嫌がらせをしてくる人はまだいたが、大多数は圧倒的な無関心で、私は空気だった。

5年生になった

4月、担任が藤田雅美先生に変わった。
藤田先生は若い女の先生で(それはその学校では非常に珍しい事だった)、ソバージュにロングスカートをふわふわさせていて、元気で美人そして求心力のある先生だった。

最初の全校集会が終わった校庭で、藤田先生が初めてクラスの生徒の前に立った時、先生は真っ先に私を見て私のジャケットの袖に触れてこう言った。

「赤いジャケットおしゃれだね。」

今思えば、前の担任からの何かしらの申し送りがあったのかもしれない。だから先生は最初に私に話しかけてくれたのかもしれない。なんらかの意図はあったと思う。

それは、私にとって救いの言葉だった。

都会の5年生の女子の中で『おしゃれ』は正義だった。
とたんに私は空気では無くなる。嫌がらせをする人は居なくなり、みんなの輪に入れる様になった。友達が出来た。

あの一言だけでは無かったのだろう。ほかに色々要因があって、藤田先生も色々してくれたのかもしれない(機微に疎かった子供の私にはそこまでは分から無かったけれど)。
けれどきっかけは、あの一言だ。

「赤いジャケットおしゃれだね。」これが私の世界を変えた一言。

5年生の時に教室のどこに座っていたのか、私は覚えていない。あの赤いロープグルグルの遊具は取り壊されたけれど、その後校庭に何が出来たのか、記憶にない。
小学5年生、くるくる表情を変えて笑ったり叱ったりする藤田先生の顔とその周りにいるクラスメイトの笑顔の記憶が残っている。
(お楽しみ会ではみんなで光GENJIを踊った。私はセンターで踊った。)

藤田先生、本当にありがとうございました。

おわり

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