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悪魔のささやき 5-4 (『夕暮れ前のメヌエット』より)

 「田中さん、申し訳ない」

 田中の額にぽたぽた水滴が落ちた。それは、自分から滲み出た血液のように思えた。今はひたすら、田中の胸を押し続けて、自分が田中の心臓の役割をするしかない。それが、せめて自分に出来る償いなのだ。

 どれ位、押し続けていたのだろう。突然、肩をポンポンと叩かれた。気が付けば、若社長がゴルフ場の人を四、五人連れて戻ってきていた。手には赤色のAEDを提げている。それをひったくるようにして、引き寄せ、中を空けようとした。

 二週間前の防災訓練の時も、AEDを実地で教えていたが、まさか自分が使う場面が来るとは思わなかった。その時は、AEDは音声案内があるので、それに従えばだれにでも出来るなと漠然と覚えていた。

 しかし、実際にAEDを前にすると勝手が違った、手が震えて上手く開けられない。

 「大丈夫ですか」

 若社長が代わりに開けてくれた。音声案内が始まった。防災訓練の時とは違って、やけに低く、くぐもった声だった。それは、この緊急を要する場面には、そぐわないほど、間の抜けた感じだった。嫌な予感はするが、このユーモラスなほどゆっくりとした音声案内のおかげで、多少冷静になることが出来た。何とか装着することが出来た。

 「スイッチを押してください」

 若社長に頼むと、
「離れなくてもいいのですか」

 気が付くと、田中にまたがったままであった。離れて、自分がスイッチを入れることにした。初めてのことなので、国家の運命の鍵を握るミサイルを発射する時のような気持ちで、震える右手を左手で手首を握って止めて、ゆっくりと押した。

 田中の指先がピクリと動いた。それだけだ。体全体が、のけぞって跳ね上がる衝撃を予想していたのに、それはあまりにも意外だった。すかさずもう一度押した。今度は、指先一つも、何も動かない。やけになって、何度も動かしていると、青色のランプが消えて、音声案内の何も消えてしまった。バッテリーがないのだ。

 あまりのことに、AEDをグリーンに叩き付けた。柔らかいグリーンの中に、衝撃を受け止められて、音もたてずに吸い込まれるように落ちたAEDは、私のむなしさをさらに掻き立てた。

 このままでは、田中を助けることが出来ない。助けるどころか、この手で田中の生命を奪うことになってしまう。高校生の小津さんの横顔が脳裏を掠めた。もう、小津さんに会うことは出来ない。私は、小津さんにとって、夫殺しの犯人になってしまうのだ。

 自分の中に、知らないうちに育んでいた悪魔がいたのだ。その悪魔が世話になった田中を葬り去ろうとしているのだ。田中がいなくなれば、小津さんは自分のものになる。何処かで悪魔がささやいているのだ。何と醜悪な考えなのだろう。その悪魔のせいで、運命の女神は、力を与えてくれない。最後の望みであるAEDを作動してくれないのだ。自分のせいなのだ。自分が、今この手で田中を葬り去ろうとしているのだ。殺人を犯そうとしているのだ。その様なことをして小津さんは喜んでくれないことは分かっているはずなのに、その様なことをして小津さんは手に入れることは出来ないのは分かっているなのに。自分の中に潜む心の中のくすみがある限り、小津さんを愛する資格を失ってしまうのだ。

 自分は、小津さんの前から、去らなくてはならない。「愛する」など横たわっている田中を前にして、思うべきではないのだ。己に潜む悪魔よ。立ち去れ。

 もう一度、田中の上にまたがり、心臓マッサージを続けた。田中が息を吹き返すまで、何時間でも、力がある限り、自分の命が続く限り、続けるのだ。自分が田中の心臓の代わりを務めてやればいいのだ。自分の心臓が飛び出さんばかりに鼓動が高鳴り、息が田中にかかるほどに荒くなって行く。いつまでも、続けるのだ。この状態をいつまでも続けるのだ。自分がこのまま力尽きた時こそ、田中が蘇るのだ。自分の命を田中に譲ろう。小津さんに捧げよう。自分は殉教者になるのだ。そうすれば、田中を傷つけずに小津さんの愛を享受できるのだ。命が果てるまで、田中に尽くそう。早く、この命を田中に渡してくれないか。この命を田中に捧げよう。この命を小津さんに捧げよう。

 不意に肩を叩かれた。気が付くと、何人かの白衣を着た人がいた。

 「ご苦労様です。はい、変わりましょう」

 救急車の赤い点滅が、白衣を赤のまだら模様に染めている。救急隊員が来てくれたのだ。手際よく、AEDを装着している。

 私は、この手で田中を救うことが出来なかったのだ。この手で、救うことが出来なかったのだ。この命を田中に捧げることが出来なかったのだ。これで、小津さんの愛を享受することが出来なくなったのだ。殉教者なれなかったのだ。私は生き残ってしまった。再び、絶望の淵に落された。あたりに構わず、泣き崩れた。


 軽い振動で、気が付くと、救急車の中にいた。田中は、何本かの管が通されていて、モニターが取り付けられている。モニターに映し出されている波形が規則正しく、信号音と共に動いているのを見て、田中が蘇生しているのが分かった。眠ってしまっていたのだろうか、あまりに興奮してしまって、放心状態になってしまっていた。少し肌寒いと思ったら、肌着のシャツのまま、靴を履いていなかった。自分も救急車に収容されていて、とてもではないが付き添いには、見えないなと思った。

 「意識は、ありますか」

 「ありません。意識はありませんが、心臓は鼓動しています。あと、二、三分でも遅かったら、最悪の状態になっていたと思います。ありがとうございました」

 「AEDが壊れていた」

 「極たまにそういうことがあるのですよ。いざとなると、慌ててしまって、使い方が分からなかったり、使っても良い状況か判断出来なかったり、戸惑って何も出来ない人がほとんどです。ご主人ように、使用できる人は意外と少ないのですよ。折角なのに、故障していたとは残念でした」

 プロペラの小型輸送機が、雲の中に入っているように、救急車は何の前触れなしに車体ごと大きく揺れる。その揺れは、モニターから発信される規則正しい電子音と調和しておらず、乗り心地が悪い。サイレンの勇ましい音に反して、窓の外を流れる景色はあまりにもゆっくりと流れる。前を走っている車は、地位を剥奪された国王を前にしたように鷹揚と道を開けてゆく。

 「患者さんのお知り合いですよね。ご家族と連絡を取りたいのですが。教えていただけますでしょうか」

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