時代小説『龍馬が月夜に翔んだ』第29話「龍が駆け上がる」
「リョウマ、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ、リョウマ、シヌナ」
瀕死の中岡慎太郎があえぐようにつぶやいている。
よし、寺田屋の時のように、力ある限り逃げよう。
あの時のように屋根伝いに逃げよう。
しかし、あの時はお龍がいた。
三吉慎蔵もいた。
今、誰もいない。
恐怖よりも孤独に胸が締め付けられる。
龍馬は左手に持った抜き身の脇差を杖代わりに這いつくばって窓の方に向かう。
刺客の服部武雄が、龍馬の護衛の藤吉の強烈な羽交い絞めで意識を失いそうになっている。
その時、抜き身の手槍を手にした新選組の大石鍬次郎が、疾風のように近江屋の二階駆け上がってきた。
「中岡は何処じゃ。お前ら、ぶった斬られたくなけりゃ、大人しくしろ」
奥の間の前で、身構えている土佐藩士谷干城、田中光顕を恫喝する。
震えあがった二人を制して中に入ろうとするが、行く手を服部を羽交い絞めしいる藤吉にふさがられている。
「服部さん、ご無礼」
大石は、服部に覆いかぶさっている状態のまま藤吉の脇腹に手槍を浅く突き刺した。
藤吉は思わず羽交い絞めを外した。
藤吉は自分の痛みに手を当てることなしに、龍馬を探した。
龍馬は、この場を逃れようと出窓の障子を開けて物干し場に移ろうとしている。藤吉、傷ついて血が流れ落ちているのも気に留めず、体を左右に大きく揺らしながら、龍馬の方へ向かって行く。
服部は、すかさず居合抜きに藤吉の背中を右袈裟掛けに斬る。
刃を入れて切り下げる。
血しぶきが、床の間の掛け軸から天井まで飛び散る。
それでも藤吉は龍馬の方に行こうとし、前のめりに倒れる。
握った右手を前に出したまま息絶えた。
背後で激しい振動は伝わるが、全くの静寂に包まれている。
龍馬は耳をやられているのか、何も聞こえない。
脇差を逆手に持った左手で、物干し場に出る障子を開ける。
身を清めるような冷たい風が入る。
身体を投げ出すようにして段差を乗り越え、やっと物干し場に出る。
両手がふさがっていて使えない。欄干に肘をかけて何とか立ち上がる。
龍馬は、凍りついた。
物干し場の周りは何もない。
下に中庭があるのみ。屋根伝いに逃げることが出来ない。
飛び降りるしかない。
その時、衝撃が走る。
雷に打たれたような衝撃が全身を貫く。
胸から角のようなものが突き出た。
大石に背後から手槍で突かれたのだ。
龍馬は心臓を後ろから一息に差された。心臓を貫いた穂先は、勢い余って龍馬の体を突き抜けていた。
龍馬は、刺された衝撃で欄干から前のめりになる。頭から下に落ちそうになる。その瞬間、大石は素早く手槍を引く。
反動で今度は、仰向けになる。
天を仰ぐ。
不気味なほどに沈黙。
仰向けに倒れる瞬間、月が目に入る。
見事なほどの満月。
後から、拳銃を握ったままの己の右手が満月の前を横切るのが映る。
それはまるで月に向かって、龍が駆け昇って行くように見えた。
「お龍」
龍馬は、物干し台に仰向けに倒れた。
しっかりと開かれた両目は、月の光を帯びて輝いていた。
龍馬は死んだ。
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