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短編小説『ずっと二人で夕焼けを眺めていたい』

胸騒ぎがした。単身赴任をしている部屋へ、内緒で1日早く行ってみた。
やっぱり私の予感は、当たっていた。
夫の裕司は、誰か知らない若い女性をこの部屋に招き入れた痕跡があった。
嫉妬と言うより、なぜか悲しみ。
私は、裕司の身体の秘密を知っているから。
裕司は、遠くに行ってしまった。
私が一番近くにいてあげないといけないのに。
病院で見た若い医師が書いた火星人のお化けみたいな絵が浮かんできた。あのとぼけた悪魔が、裕司の中で徐々に大きくなってきている。
私が、裕司の体のことを一番に知っている。
裕司が危ない状況にいることを知っている。
私が一番近くにいないといけないのに。
カーテンを開け放って、ベッドの端に腰かける。
エアコンが効きすぎているせいか、窓から見える夏の空に浮かぶ鰯雲が、秋の気配を帯びてきているように見えた。
サティのジムノペティが、何処からともなく流れてくる。
ゆっくりと雲は、形を変えながら流れてゆく。
何も考えずにずっと、雲を見ていたい。
ずっとこうして、裕司が帰ってくるのを待っていたい。
裕司、何処にも行かないで。ジムノペティの同じフレーズが繰り返し流れている。
この雲のように、形のあるものは時の流れと共に変えてしまうのだろうか。
裕司が裕司のままでいられなくなるの?
私は、昔のアルバムを繰るように裕司の若い頃の裕司の姿を思い出していた。
真白のポロシャツを着て、肩まで伸びた長髪でにっこりと微笑む裕司。
ずっと瞼に焼き付けようと目を閉じた。
両方の目じりを熱い涙が流れ落ちる。
裕司。裕司。
私の中にはあの頃の裕司がいる。
お願い。
裕司、どんなことがあっても変わらないで。
そして、そして、消えて、消えて、消えてしまわないで。
お願い。
いつまでも、そのままでいて欲しい裕司。
私だけが、裕司のことを一番知っている。
付き合いだした頃から、ずっと一緒だった。
そして、今蝕まれて行こうとしている裕司の体のことを私が一番に知っている。
でも、これから先のことは分からない。
流れる雲が、どのような形に姿を変えるのか分からないように、未来のことは分からない。
これから先のことは、分からない。考えたくもない。考えたくもない。どうかお願い、雲よ、流れないで、お願い、姿を変えないで。止まって。お願い。
涙が、涙が、溢れてくる。こんな大事な時に、私より若い女を部屋に入れるなんて。私が、こんなに裕司のことを思っているのに、あなたは気が付かないのね。あなたは、いつも素知らぬ顔。茫洋としている。本当は、裕司のそういうところが好き。
私が、一番あなたのことを知っているのよ。誰よりも、あなたのことを想っているのよ。それなのに、あなたは、気づかない。あなたは今、大変なことになっているのよ。
そのことをあなたが知った途端、あなたは遠くに行ってしまうような気がする。あなたがあなたでなくなるような気がする。私は、それが怖い。そして、それが私にとって一番辛い。
泣きたい。悔しさと怒りと、もどかしさと悲しみが一緒になってこみあげてくる。泣きたい。思いっきり、声を出して泣きたい。私は、裕司なしには生きられないのよ。
気が付くと空が紫色に染まり出した。流れる雲も朱の隈取りを入れ始めた。そろそろ裕司が返ってくる時間。
私は、新婚の時のように夕食の総菜をスーパーマーケットで買って、駅の改札で裕司と待ち合わせて帰りたくなった。あの頃一緒に見た夕焼けをまた見たくなった。
そうだ、また裕司と夕焼けを見ながら二人並んで歩きたい。

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