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『スカイフック』第10話 名古屋大空襲

名古屋市御器所町の村雲小学校の北側は、鬱蒼と茂る竹藪になっている。

その中に、ぽつんと湯浅源一郎邸が、潜むように立っている。

元巡査であり隠棲な生活を送っている源一郎を筆頭に、そこにひっそりと暮らしている。

街中のものは、ほとんど郊外に疎開してしまったが、竹藪の中の方が一層安心だとして、源一郎は頑として動こうとはしない。妻のトメとその長男克一家族、妻梅乃とその子ども三人の七人家族、克一は召集され南方へ出征しており、その長男の勝良は学童疎開で不在、長女節子は3歳、次男良次はまだ1歳になったばかりの赤子であった。

1945年3月25日の夜、とっくに夕食を終えて、灯火統制の中で尺八の稽古をするのも気が引けて、することもなし。早めにと床に就こうとした矢先、けたたましく空襲警報のサイレンが鳴り響いた。

夜に、空襲警報が出るのは、初めてのことだった。何か不吉な予感がした。

今日は、夕焼けがいつもより妙に赤味を帯びており、夕凪の終わりに吹く海風が、やけに塩味を帯びて不快な温かみを感じたからだ。

いつもは警報のサイレンが鳴っても鷹揚に構えている源一郎だが、今夜に限って真っ先に防空壕へ避難するように家人を急かした。ぐっすりと寝込んでいた3歳の節子と赤子の良次は、それぞれ無理やり叩き起こされて防空頭巾を被らされて、母に背負われていたり、抱きかかえられたりして防空壕に入った。全員が防空壕に入り、一息ついたと思った途端に、山津波のような轟音が迫ってきた。

それが頭上を通り過ぎたと思う間も無く、ひっきりなしに花火を打ち上げるような音が鳴り響いて、爆竹が破裂するような音が続いた。最初の頃は、隣町の祭囃子の賑わいのような騒々しさだったが、段々と近づいてくる地響きとともに明らかに近づいてくるのがわかった。寝ているところを無理やり起こされた上に、節子と良次は、この騒々しさに驚いたのか、周りの騒音に負けないくらいの泣き声をあげていた。

「やけに長いなあ」

源一郎は呟いた。明らかに、敵機が三菱発動機名古屋工場を爆撃している目的であるのがわかっているのだが、そこまで執拗にする必要があるのだろうかと疑問に感じていた。

何しろ1時間をゆうに超えても攻撃が続いているからだ。その間ずっと大泣きしている節子と良次が不憫なのと、土と黴が混ざった湿った匂いが重なって居心地が悪く不快であった。

それを逆なでするように、喧嘩祭りのような怒声と鐘と大太鼓を落ち続けて、横笛を無秩序に吹き鳴らす乱れた音の重なりに耐えられなくなっていた。それが、遠くに聞こえて来たと思えば、近くに聞こえたりして、まるで街中を練り歩いているようにも聞こえる。

さすがに泣き疲れたのか、気がつくと節子と良次は眠ってしまっている。
通り雨が過ぎ去ったように、喧嘩祭りの喧騒が止んだ。締めを表すような大太鼓の音が、二、三度打ち鳴らされて、急に静かになった。

「出るぞ」

源一郎は、防空壕に入っている皆に声を掛けた。彼は、散々音外れの調子を聞かされ続けたので、今夜はゆっくりと尺八を吹いて心を鎮めたいと思っていた。空襲の後だ、誰も咎めるも者はいないはずだ。

「節子と良次が寝ておりますので、私は暫く残ります」

梅乃が言った。

「二人とも、散々泣き疲れたから起こすのも可哀想だ。取り敢えず節子だけでも寝かしておきなさい。後で、連れて来ればいい」

「はい、そうさせていただきます」

母屋に戻った源一郎が、居間の電灯をつけた瞬間、遠くで雷の落ちたような辺りが張り裂けるような音がした。遠くで不発弾が爆発したのだろうかとも思ったが、やはり雷のようで空がごろごろ鳴っている。

それが段々と近づいて来た。雷と思っていたものが、宙を飛ぶ蒸気機関車のような轟音に変わり、湯浅家の上に堕ちて来た。

防空壕に取り残された節子だけが、何事もなかったようにすやすやと眠っているのであった。             つづく 

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