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小麦粉よ!

ウェブマガジン「アパートメント」の管理人をはじめ、ユニークな活動を展開する浅井真理子さんにご寄稿いただきました。打ち合わせで「食と香りについて書いていただけないか」と相談したところ、ベーグル作りの話に。社会の変化をきっかけに、新しい香りが漂いはじめた浅井さんの暮らしに、触れてみてください。

最近、ベーグルを作るようになった。

もともと料理は好きだし、お菓子作りも手慣れたものだけれど、パン作りに対してはハードルを感じていた。発酵という工程。ドライイーストという、買ったことのない物体。もう少し生活に余裕ができたらやってみてもいいという、ありがちな「先延ばしリスト」に入っていたイベントだった。

けれど、そのときは突然やってきた。いつものパン屋に行ったらパンが売り切れだったのである。仕方ない、とスーパーまで足を伸ばしたらスーパーにもない。食パンだけではなく、菓子パンもフランスパンもロールパンも、ひとつも残っていなかった。それは街中の人間がパンというパンを買い漁ってしまったような日だった。自粛生活が始まってから間もないことだったと思う。

不便に不慣れな都会人らしく、私はちょっとした怒りを感じた。必要以上に買ってるひとがいるんじゃないの? パンを大量に買い込んだところで食べきれるわけ?

けれどすぐにこう考えた。「パンがなければ作ればいいじゃない」。お菓子を食べればいいじゃない、ではない。これはきっとチャンスなのだ。それに、パンといってもベーグルであれば一次発酵が不要らしいし、友人も作っていたので困ったことがあれば聞いてみればいい。私は強力粉とドライイーストをいそいそと買いこみ、家に帰った。

素朴な香り

強力粉に砂糖とドライイーストを混ぜ合わせてお湯を加えたとき、私は「あっ」と思った。

パン屋さんの匂いだ。まだ粉と液体が混ざっただけの、ゆるゆると頼りない物体は、しっかりとパンの匂いがしていた。久しぶりに感じる驚きと嬉しさが込み上げてきた。私はまさに今、パンを作っている!

生地を力いっぱいこねていると次第に弾力を感じるようになり、写真で見たことのあるパンの生地に変化していった。もちもちの生地は、まさにパンの赤ちゃんだった。

生地をこねたら小分けにして棒状にし、ぐるりとひねって成形する。お鍋いっぱいにお湯を沸かし、砂糖を入れて生地を浮かべる。この工程はケトリングと呼ばれ、糖分を含んだお湯に生地を浸すことで焼き上がったベーグルにツヤを出す。ベーグル作りにおける独特の工程である。私はベーグルの赤ちゃんたちを次々とお湯に浸し、オーブンの中に送り込んだ。

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ケトリング中のベーグル

ちなみに、私が参考にしたレシピはこちら。おそらく、他のレシピも工程はほとんど変わらないと思う。慣れてきたら砂糖やドライイーストの配合を変えていくと、実験のようで楽しい。ケトリングのお湯にはモルトパウダーやはちみつを入れるやりかたもあるけれど、砂糖を入れると生地が焼き上がったときにツヤが良く出ると聞いたので、私は1リットルあたりのお湯に砂糖を大さじ1杯ほど入れるようにしている。

190℃で18分。オーブンから少しずつこぼれてくる香りはとても素朴である。小麦の焼ける香り。ケーキを焼くときの、バターと砂糖が溶け合う官能的な香りとは少し違う。ベーグルにはバターも砂糖も卵も入っていないのだ。匂いもやはりシンプルである。

胸いっぱいに匂いを吸い込んでいると、ふと幼稚園の頃の夢が「パン屋さん」だったことを思い出した。ジブリ映画に感化された幼少時代との、意外なタイミングでの邂逅だった。

オーブンから取り出したベーグルは、ぷっくり膨れて表面もつややかだった。生地のつなぎ目がとれて、丸ではなくC字型になってしまったものもあったけれど、ご愛嬌。粗熱がとれたタイミングで一口かじると、香ばしい香りがふんわりと口の中に広がった。

それ以来、ベーグルは私のランチの主力メンバーとなった。たっぷりの蒸し野菜に半熟ゆで卵をのせたサラダ、クリームチーズをのせたベーグル。デザートに切ったバナナを添える。ベーグルには普通の食パンよりも歯ごたえがあるので、ゆっくり噛みしめて食べる。そのせいか、満腹になるし、なにより美味しい。これ以上のランチはなかなか考えられないくらいだ。

小麦粉が消えてしまった

ベーグル作りに成功した私はすっかり味をしめ、全粒粉や小麦ふすまをブレンドしたり、ナッツやチーズを入れたりとアレンジを加えるようになった。具材を入れすぎると成形が難しくなることもわかってきたし、ごまやきなこを合わせて作るレシピを見ては「こんなアレンジもあるのか」と感心した。パンが街に戻ってきても、「自分で作ったベーグルのほうが美味しい」とどこか得意げな気持ちになり、買わなかった。

それがなんと、今度は小麦粉が手に入らなくなったのだ。小麦粉はさすがに作れない。

諦めの悪い私は、徒歩圏内で行けるスーパーを練り歩き、ようやく強力粉を手に入れた(薄力粉はひとつも見当たらなかった)。まったく、あくせく働く東京の人間たちが、小麦粉を買いまくる日が来るなんて。ずっしりと重たい買い物袋を抱えながら、それでも私はにやにやしていた。

売れていった小麦粉たちは、今頃ふわふわのホットケーキに変身しているのだろうか。あるいはスコーン、ケーキやクッキーだろうか。私のようにベーグルを焼いている人もいるかもしれない。そして焼き上がった匂いに陶酔する人間が続々と増えているのなら、こんなに愉快なことはないと思った。

そして、このベーグル作りは私の転職期間中に始まったことなのだけれど、奇遇なことにレシピ運営をする会社に就職が決まった。無数のレシピを目の前にして、私はもしやと思った。このベーグル作りは物語の序章であり、私が今立っているのは壮大な世界の入り口なのかもしれない。小麦粉の香りは、さらに奥に進みなさいと私を誘っているのだ。
(文:浅井真理子)

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