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やっぱり“メタ構造”が好き① 雪組「ボイルド・ドイル・オン・ザ・トイル・トレイル」


はじめに

メタフィクションとは

 今年の1月から2月は雪組と過ごしたと言ってもいい。思い出深い「ボイルド・ドイル・オン・ザ・トイル・トレイル」。東京宝塚劇場で数回観劇した。劇的な展開はなくとも当て書きの利を活かした脚本で、各演者の個性による自然な展開があった。本作を観劇して最初に想起したのは、2022年に上演された花組「巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨」(「ボイルド〜」と同じく生田大和作/演出)である。2作品の共通点は作者が同じであるというだけでなく、現実世界と物語の非現実世界が両方とも存在する複雑な構造になっていることだ。
 つまり、フィクションの中で「それがフィクション(作り話)である」ということが示されるのである。それは「メタフィクション」という文学のジャンルに近いと言ってもよい。孫引きにはなるが、ウィキペディアの「メタフィクション」の項目の冒頭には以下のように書かれている。

メタフィクションは、漫画・アニメ・小説などにおいて「それが作り話だ」ということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する

パトリシア・ウォー『メタフィクション 自意識のフィクションの理論と実際』結城英雄 訳、泰流社、1986年、p.13

「巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜」

登場人物が「物語」の中にいる

 「巡礼の年」では、冒頭の場面で作品全体が「物語」の枠組みの中にあることが示される。フランツ・リスト(柚香光)と、その恋人ジョルジュ・サンド(永久輝せあ)の会話である。

サンド「ようやく書き上げた私の新作」
リスト「どんな話?」
サンド「真実の愛を探して、彷徨う魂の物語」
(中略)
リスト「アンディアナじゃない。君の話だ」
サンド「…そう、これは私の物語」

『ル・サンク』通巻383号、2022年、p.46

つまり、「巡礼の年」はサンドが書いた物語として出発する。しかし、作品の主人公はリストである(宝塚のトップスター=主人公という方程式を無視することはできない)。物語の締めくくりとして、作品の終盤には再びリストとサンドが会話する場面が用意されている。そのことで、作品が一続きの「物語」という枠組みの中にあったことが改めて示される。

リスト「どこなんだ、ここは」
サンド「自分で来たんでしょ。それなのに、わからない?」
リスト「わからないから、聞いてる」
サンド「言ってみれば、あなたは物語の中にいる」
リスト「物語?」
サンド「そう、彷徨う魂の物語」

『ル・サンク』通巻383号、2022年、p.58

ここではリストという人物が、単にサンドの書いた物語の登場人物であるリストというよりも、「自分で来た」というセリフから分かるようにリストが自ら紡いだ物語の主人公リストであることが強調される。
つまり、登場人物は作中で語られる「物語」の世界に内包される形になっている。

「ボイルド・ドイル・オン・ザ・トイル・トレイル」

現実と「物語」が並行して存在する世界

 では、雪組公演においてはどのように現実世界と非現実世界が表現されていただろうか。本作では、アーサー・コナン・ドイル(彩風咲奈)が自身の書いた小説の主人公シャーロック・ホームズ(朝美絢)、または複数名の「ホームズズ」に出会う。ここで、登場人物の生きる世界と物語世界とが交差するわけだが、『巡礼の年』とは異なり、登場人物が物語世界に内包されることは明確に示されない。それよりも、アーサーとホームズが現実世界と物語世界を頻繁に行き来していることから、それらが並行して存在するということが強調される。
 その様子を見ていた私は、客席という現実世界舞台上という物語世界がいつもよりもぐっと近づいた感覚を覚えた。そして同時に、アーサーたちが生きる物語世界に私たちも属しているという気さえした。

私はなぜ「メタフィクション」に惹かれるのか

 「巡礼の年」や「ボイルド〜」における「メタフィクション」は現実世界と非現実世界が別々ではなく地続きのもの、ひいては物語の方が大きな枠組みでその中に現実があるという捉え方がされていた。そのような捉え方は、客席(現実)と舞台上(非現実)の境界もまた曖昧なものであるということの表明なのかもしれない。 
 『ボイルド』の劇中では、物語は単に消費の対象ではなく、誰にとっても想像/創造の対象であること、物語は人を喜ばせるだけでないということが示される。物語は、時には作家であるアーサーをも困らせるように人々を翻弄し、時にはルイーザ(夢白あや)を病に導いたように人々を傷つける可能性も持ちあわせている

 私は舞台を見ている時に、没入よりも俯瞰して観たいという思いが強くなる傾向にある。それでも物語に身を任せ思う存分没入したいと思う時も、もちろんある。「メタフィクション」の作品を観ている時は、「自分は物語を観ているのだ」と自覚する俯瞰の視点と、「自分の住む世界が物語と繋がっている」という没入の感覚の両立が許されていると思える。だから、惹かれるのだろう。

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