空間に余白を作ると、自然と身体は動き出す。
2021.6.20(日)
昨日は午前中実家で
妹とソファの向きを変え
ダイニングのモノの整理をする
紙箱や缶を捨てず
その中に菓子や乾物を仕舞い込んで
ずっとそのままにしてあったモノがたくさん
色々捨てていくと、結局ほとんど不要なモノ
母は「余計なことするな」というが
不要なモノを整理することの何が余計なのか
母はなんでも捨てない
きっとこういうのは、我が家だけの話ではないだろう
いくら議論しても仕方ない
そもそも議論になってない
だから「理屈をこねる」のを止め
黙って行動した
母は「なんで捨てるの!捨てる前に聞いて」というが
「そんなことしてたら全部捨てないじゃないか!」
とは言い返さず
黙ってこっそり捨てていく
テキパキ作業をしていると
だんだん不審に思われて
僕が捨てたモノをいちいち確認してくるようになる
ウイスキーや酒、焼酎の空き瓶など
「後で使おうと思って取っている」という
ツッコミどころが満載だけど
母の気持ちに寄り添って
知らぬが仏
実家のゴミ箱には捨てず
段ボールに詰め
自分の荷物として自宅へ運ぶ
自転車には積み切れない量になり
後で父と妹が車で運んでくれることに
母の検閲を逃れるため
段ボールをガムテープでしっかり口封じ
ゴミを運ぶだけで密輸業者の気分を味わえた
そんなこんなで昼過ぎに自宅へ戻る
なんだかどっと疲れが湧いて
父がいつもやるように
ソファにどかっと横になる
雨戸は閉めたまま
Netflixを立ち上げる
「究極のハピネスを求めて」という
ドキュメント映画のタイトルが目に止まる
若いドイツ人のカップルが
アメリカの古いスクールバスを
巨大なキャンピングカー(というか家)に改造し
南北アメリカ大陸を自由に旅する
その映像をぼんやり眺めながら
自分はほとんど旅をしたことがない
こんな巨大な車は無理だが
いつか妻とふたりで旅をしたいと思う
何度もうたた寝しながら
断続的に観ていると
観終わる前に18:00
映画を止めてランニングに出かける
走っていても調子が上がらない
ランニングを始めてからこれまで
ずっと調子は右肩上がり
でもこんな日もあるのだろう
あまり何も考えず
いつもの6周を走り終え
家に戻って湯船に浸かる
母に悪いことしたかな、とも思う
本人が嫌がることをするのは
たとえ正しいことでも
良いこととは限らない
理屈ではなく感情としてどうなのか
もうそれ以上は考えないで
飯を炊き、洗濯機を回し、
料理をして皿に盛り、食べる
洗濯物を部屋に干し、食器を洗い
歯を磨き、雨戸を閉め
寝床で太陽礼拝3回し、眠る
4:20の目覚ましも鳴っていたようだが
気づくと4:50
ぐっと深く、眠り続けたようだ
雨戸を開けると思ったより明るい
カラスも元気に飛んでいる
今朝の空は美しかった
なんだか涙が出そうになった
途中で何度か立ち止まり
朝焼けの空をスマホに収める
写真を見返しても
思ったほどきれいではないが
見ると、今朝の感覚を思い出す
日曜の朝
いつもの人には会わなかったが
初めての人とすれ違い
「おはようございます」を交わす
家に戻り、雨戸を開け、
外の空気を家に通す
コーヒーマシンのボタンを押すと
けたたましく豆をひく音に
慌てて窓を閉め直す
ふと食器棚を眺める
先週、大量の食器類をテーブルに並べ
自分が今使いたいものだけ選んで食器棚に置き直し
今使わないものは、空いた3段ラックにしまった
今の食器棚には、上に空間の余白がある
僕はそれまで、割れにくそうな同じ皿ばかり使っていたが
食器の整理をしてからは
料理をしながら、皿を選ぶようになった
洗った皿を戻す作業もスムーズになった
食器棚に空間を作り
見通せるようになると
「探す」作業がなくなり
「選ぶ」愉しみが生まれた
これは、食器棚に限ったことではなく
家のいたる所で言えること
空間に余白ができると
自然と身体は動き出す
余白は空間だけではなく
時間にも同じようなことが言えそうだか
考えるのもほどほどにしておこう
今日は父の日
父はきっと、昨日動かしたソファに寝そべって
ゴルフチャンネルでも観ているだろう
母はダイニングテーブルでお茶でも飲んでいるところか
昨日は少し喧嘩みたいになったけど
時間をおいて、少しスッキリした家で
今日もおだやかな朝を迎えていますように
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