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【初投稿】noteを始めて未来の自分を救いたい(何者かになるために書く)

はじめまして。初投稿になります。どうぞよろしくお願いします。

Q.なぜnoteをはじめるのか

A.
①「この作品を見てどう思った」「この時何が考えた」を残しておいて未来の自分を救いたいから。
②記録しておくことが自己の確立と肯定につながるから。
③記録によって自分が「何者か」を確かにすることができるから。

以上が私がnoteをはじめる理由です。
これらの考えにたどり着いたのは、2度アイデンティティを喪失しかけた経験から。「記録しておけば=自分の形を明確にしておけば、悩むことはなかったのに」そう後悔しました。であるなら、もうこの後悔を繰り返さないために、記録をはじめよう、そう考えた次第です。

簡単な自己紹介

2014年、中学生の時にTOKYO MXの再放送で蒼穹のファフナーに出会い、自分の人生の一部となりました。作品がすごく好きなあまり、「ファフナーってめっちゃ面白いんだよ~」という話をするYouTubeを始めた人です。梅戸おこめ申します。
最初はゆっくりの霊夢ちゃん・魔理沙さんにお話ししてもらう形式からはじまり、超絶かわいいバーチャルの体を手に入れたかと思ったらずんだもんの声にはまってVOICEVOXを使用したり、きまぐれにその時つくりやすい形で動画を作ってきました。きまぐれに配信もしてます。
【illust:@kota_roo_san】【modeling:@nonon_yuno
マシュマロ:http://bit.ly/3rsDIss


もう「梅戸おこめ」のアイデンティティを喪失したくない!!!

私は元々「ファフナー好きのおこめ」という名前でした(バ美肉したタイミングで改名)。名前の通り、「ファフナーが好き」が「おこめちゃん」のアイデンティティだったわけです。
しかし2度、「私はファフナーが好きである」という自信を失いかけました。本当に小さなことがきっかけです。でも小さな綻びが私の存在自体を失いかけるほどに大きく影響していしまいました。だって「ファフナーが好き」だけを「梅戸おこめ」のアイデンティティだと自分で縛っていたから。「ファフナーが好き」というアイデンティティが不安定になったが最後、「梅戸おこめ」の存在自体が危うくなってしまうわけです。
「自分がファフナーを本当に好きなのか本当にわからない」という劣等感・罪悪感・自己嫌悪。ファフナーが好きじゃなかったら、私は何者なんだ。自分が立っている場所も天と地の方向も自分の形さえもわからない。まさにアイデンティティの喪失。自分が何者か不安定になるたびにアカウントを消していなくなりたい気持ちに襲われてきました。
※アイデンティティの喪失の2度の体験談、本当は書きたかったんですけどまたの機会に持ち越します。

ファフナーが好きか不安になったのは。2021年11月でした。
2021年11月といえば、シリーズ最終章「THE BEYOND」の最終話が公開され、蒼穹のファフナーが完結したタイミング。シリーズの締めくくりは本当に嬉しいことでした。そんな中、本当に小さなことがきっかけで自分がファフナーが好きである自信がなくなってしまったんです。
しかし12月末のファフナーファイナルフェスという公式イベントでは、ずっと大好きな曲を大切に披露され「自分が好きなファフナー」が肯定された想いになってスッキリして晴れやかな気持ちになることができました。「やっぱり私はファフナーが好きなんだ!!」そう自信が持てたはずでした。
しかし年が明けて3月になり、THE BEYONDの最終巻が手元に届いても見返す勇気が持てませんでした。「またファフナーが好きか不安になったらどうしよう。今度こそ立ち直れないかもしれない」またしても不安になってしまったんですね。12月に感じていた、自分の表面0.5mmを常に覆うような薄っすらとこべりつく鬱っぽさがまたやってきました。

本当に改めて文字にするとグタグタうねうねしている自分が嫌になってきますわ。「ファフナーが好きか不安」になっては「自分が好きなファフナーだ!!」とポジティブになれたと思ったのに、「またファフナーが好きか不安になったらどうしよう…」と余計に不安になってた。
ここまで拗らせてると、そんなどうしようもないループに囚われる過去の自分に同情してきちゃいますよ。当時の考え方ではそうなっても無理はない。だってその時は、「ファフナーだけが好きでファフナーの話しかしない」をおこめちゃんのアイデンティティにしていたんですもの。
そりゃ苦しいわな。自分好みじゃない部分が少しでもあったら自分のアイデンティティはぶれてしまう。だからファフナーに対するモヤモヤに向き合う勇気すら持てない。「私はファフナーが好きだから、ファフナーのことをひたすら考え続けるんだ。だってファフナーが特別だから」そんな風に盲目的にただ一点の視点から見続けていたら気が滅入ってきますわな。

これからの「梅戸おこめ」のアイデンティティと確立法

次第に考え方が変わっていきました。「ポジティブな気持ちで”ファフナーが見たい!”そう思えるときまで無理にファフナーに固執しない! 外の世界を見てみよう!」そう気持ちを切り替えたんです。
”気持ちの切り替え”というと聞こえがいいですが、正直に言えば一種の諦めです。「こんな堂々巡り、いつまで経っても解決しないだろ!!一旦あきらめちゃお!!」そんな開き直りです。
そうして2月から約10か月くらいファフナー断ちをして過ごしました。TwitterにもYouTubeにも浮上せず、その間にファフナー以外のコンテンツに触れてきました。

ようやく自立の旅から帰還して、ポジティブに適切な距離感でファフナーと向き合えるようになって、「梅戸おこめ」として戻ってくることができました。
そんな今の私が目指す「梅戸おこめ」の自分像。
様々なコンテンツに触れてたくさん好きなものも好みじゃないものもある。その中で私はファフナーを選ぶんだ
それをおこめちゃんのアイデンティティにしたいんです。

かけた熱量、かけた金額、時間
それが愛になる
しかし知らないうちにこぼれ落ちてしまう
いざというときに見返せないと自分を見失う
もうそうならないためにここにまとめる

何者かになるために書く

10月×日 自分のメモより

これは本格的にnoteをはじめたいと思った10月ごろに残しておいたメモ。ポエミーななぐり書きでものすごく恥ずかしいのですが、その時の心理をそのまま表した文章なのでそのまま記載しました。
これからはじめるnoteの目的は上記に詰まっています(私はポエムを常日頃から書き溜めておくタイプでは全くありません。むしろ生まれてこの方初めて書いたかもしれない)。

このメモは、美術館・博物館にいったり、読書をしたり、様々なコンテンツに触れながら気が付いたことを残しておかなくちゃ!と急いで書いたものです。そのときの自分よ、メモを残しておいてくれてありがとう。おかげでこうしてまとめられているよ。
読んでいた読書術の本のおかげで、複数の本を同時に読み進める”併読”が基本の読書スタイルになっていました。ストレスを感じたらその本を閉じて別の本をめくる。一冊を読み終えなくてもいい。常に7冊くらいを開きっぱなしにしておくという読書法は私には合っていました(kindleのおかげで実現できる方法です。ありがとうkindle)。読書という行動へのハードルを下げる助言のおかげでストレスなく継続。そんな中、すごく当たり前のことに気が付けたんです。

広く浅く色んなコンテンツに触れることは知識を薄く重ねていくような作業だ。広い空間に薄く薄く、その積み重ねは次第に濃淡が生まれてくる。それすなわち知識量の差だ。知識量が濃くなった場所は、自分が繰り返し触れ積み重ねた領域、ということ。知識量の差は自分の関心度とほぼ同義になる。関心がより高いものはそれだけ自分が”好きなもの”だと言い換えられる。よって、知識量によって、自分が好きなものが何であるかを改めて理解することができるのである。

10月×日 自分のメモより

「好きなものに対しては特別に詳しくなる」
当たり前のこと。本当に当たり前のことなのよ。でもこの時の私にとっては大発見だった。なぜなら、たったそれだけのことで数か月答えが出せなかった「私はファフナーが好きなのか」のアンサーになったから。

「人並みにいろいろアニメなり映画なり小説なり様々なコンテンツに触れてきたけど、比べる対象が無いほどダントツにファフナーに詳しいじゃん。 ⇒やっぱり私にとってファフナーは特別だったんだ!!!!
アハ体験だった。脳内麻薬がどしゃどしゃ放出される音がした。
「大切なのは他者との比較じゃなくて、自分自身との比較ですよ」
自己啓発本で見飽きた文言の意味がやっとわかった。
私がファフナーを好きか不安になって、自分自身を見失いかけた根本的な原因は他者と比較したためだったんだとようやく気が付くことができた。
「ファフナーに詳しい人がいっぱいいる。追い付けるように私もファフナーのことたくさん考えなきゃ」そんな風に自分を追い込んでいたんだと当時の私をメタ認知することができた。

自分にとってファフナーが特別。それでいいんじゃん!!

良かったね!私にとってファフナーはやっぱり特別だった!これからもたくさんファフナーのこと考えていこうね!






…じゃ駄目なんだ!!
今のポジティブな感情は長続きしないし、そのポジティブな思いだけ残しておいてもネガティブになった未来の自分には響かない!!


しかし知らないうちにこぼれ落ちてしまう
いざというときに見返せないと自分を見失う
もうそうならないためにここにまとめる

10月×日 自分のメモより

そうなんだよ。そのとき得た知識も好きという思いも、大事に両手で救い上げても隙間からこぼれ落ちてしまう。日々行われるインプットをいくつもいくつも抱えておくこともできない。
だから大切なのは、いつでも見返せるように残しておくことなんだ。
日常の一つ一つのインプットを言語化して保管しておく。
そんな積み重ねでいつか、自分が何者かになれるんじゃないか?


以上が、私がnoteをはじめる理由・目的・最終的な目標です。
本当に人って、簡単に自分を失っちゃうし病むし傷つく。
自分がそういう人間だとわかっているなら、自分なりの対処法を見つけて、適切に付き合っていこうね。過去と未来の自分へ向けたメッセージ・決意の表れでもある。

自分は何者か、まだ不安定なんです。
「私は○○が好きなんです」それが自信をもって言えるようになったらそれが「自分が何者か」の答えになると思うんだ。
「私はファフナーが好きです」じゃまたアイデンティティがブレることをもう学んだ。○○に入るものが、コンテンツ自体だと危ういんだと思うんだ。
○○に入るものは、好きだと感じる作品や物事を分解して抽象化して、それをあらゆる分野で続けていって、その先に残る「要素」だと考えます。
…書いていて気づけた。これ、太宰治の『正義と微笑』と同じ考え方だ。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記あんきしている事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。

太宰治,正義と微笑 

私はカルチベートされた人間になりたい!

色んなものに触れて知って理解して、その先に残った砂金が私を「何者か」にしてくれると思うんだ。

「何者かになるためにかく」
それがこのnoteの目標です。


最後に/2023年の目標

人の記憶の頼りなさを、こうしてまとめていて改めて感じますわ。
noteをはじめたいと思ったきっかけを、まとめながら思い出しました。危ないところだった、あと一週間遅かったら思い出せていなかったかもしれない。

「ちゃんとインプットをアウトプットしよう!」そう決意したはずなのに、今年行った美術館・博物館、読んだ本の感想、全然まとめられていないのですが。
🥺🥺🥺🥺🥺
ひん。かなしくなる。
いやいや落ち込まない。大丈夫、一つ思い起こしていこう。

2023年の目標、かたまりましたね。
完璧主義でなく完了主義
いろいろ行動が遅い最大の原因は、完璧主義なことなんですよ。
綺麗にまとめたい、もう一度読み直してから感想を書きたい。物語の展開を要約して要素化して全て完璧に理解したい。
そんなこと考えてたら筆も進まないですわ。
最近は通勤時間とお昼休みに読書を楽しんでいます。読書はスマホをパカッと開いたらすぐにできるのでハードルが低い(z fold4愛用者なのでスマホはパカッとです👍)
一方、感想を書くときはキーボードを使いたいから電車のなかで作業できない。すると家にいる時間で進めるしかない。
…なるほど。もう一つの目標も見えてきた。
お家時間の有効活用
YouTubeばっか見ない!!作業用BGMを探すのに何時間も使わない!!
本当に当たり前のことですね。
ひとりでこねこねしがちな考えをタイピングしながら整理できて良かった。
作業配信、やっぱり自分には必要だなと思いました。
作業配信でなくてもいいんですよ。頑張ろうコミュニティー的なものでもいい。コミュニティー的なもの、すごく興味があるけど現状見当もつかないので、これを探すためにまた時間を使ってしまう予感がした。
やっぱり、今すぐにはじめられるのは作業配信だな。配信をはじめるにはパソコンを開いて机の前に座るしかない。パソコンを開いて向かったら、もう作業するっきゃないでしょ!よし!これなら普段机に座れない病の私でもパソコン作業をはじめられる!!大発見だ!!!!

ふぅ、自分の考えをまとめられて良かった。
適切なアウトプットって本当に心身の健康に良いな、と思います。
インプットとアウトプットって、代謝だと思うんですよね。
自分の中に取り入れる作業がインプット。必要なものをピックアップして自分のものにする作業がアウトプット。そして不要なものは忘れていく。
この「忘れる」をポジティブに・積極的にすることがアウトプット以上に健康に良い気がします。
だって忘れていいんだもん!!!「忘れちゃいけない」ことばかり溜まっていくとフレッシュだったはずの知識も脳のキャパの奥底でどんどんヘドロ化してしまう感覚がある。
積極的に忘れるって最高のデトックスよ!
人生における最重要ライフハックの一つに認定しよう。

※上の「正義と微笑」の引用は最終確認の時に追記しました。「忘れていいんだよ」みたいなくだりまで、まんま太宰やん。この文章を知ったのは、数年前にTwitterで流れたときだと思う。それからずっと経って、思い出しもしなかった。なんならこの文章が誰のものかもわからなくて福沢諭吉だと思ってた。太宰治、すごいな。パッと見ただけの文章がこんなにも自分の根底の考えに根付いてた。本当に本当に調子乗ったことを言うと、太宰治と同じ考えにたどり着いた自分もすごくないか?…いや、やっぱりすごいのはスッと他人の中に自身の言葉を溶け込ませられる太宰大先生ですね。文豪って本当にすごい。勉強になります!

話ついでにちょっと横にずれた話をすると、「この人合わないな~」って感じる会話って、自分の身を削る感覚がしません?もっと言えば個人情報を切り売りするような会話(=不適切なアウトプット)。
あれって、お互いの共通項がない=インプットが合わないが故に起こる現象なのかな~と気づきました。
職場の人と職場の噂話しかしない・共通の知人の悪口でしか盛り上がれないという状況のは互いの共通項が職場しかないが故に起こるんだろうと思いました。だからこそ、共通のインプットがある職場の友人って仲良くなれるよね、という話です。
だれかファフナーのファンじゃないかな~~~~~!!!!????




…おわりです


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