碧空

碧空と蕃茄 (※イラストは血ではなく〇〇〇です)

「もうダメだ。」
そう思った瞬間腕の力が抜けて、目の前が真っ暗になった。
ヤバい。トラックの下に入ってしまった。
直後、物凄い力で腕を引っ張られた。

光を取り戻す私の目。
青く澄んだ空が見えた。

大きな歓声が上がる。
地面が一瞬で赤く染まる。
赤い赤い、
トマト。
何台も連なる大きなトラックから吐き出された、潰されて水と混じったトマトの海だ。

スペインのバレンシアにある、ブニョールという小さな街で毎年8月の最後の水曜日に行われる“トマティーナ”。
トマト祭りの会場のド真ん中で私は、今まで感じたことのない程の熱気を浴びていた。

◇◇◇

ブニョールという街は噂に聞いた通りの小さな街だった。
トマティーナの参加者の多くは周辺の市街地から電車に揺られてブニョールを目指す。私たちもバレンシア中心部に宿を取り、当日朝の電車でブニョールへ向かった。電車はトマティーナの参加者でほぼ満員。他の乗客に倣って床に座り込んだ。
小さな街にどんどんどんどん、途切れることなく人が集まってくる。
お揃いの衣装やかぶりものをした人たち、おなかや背中に的を描いている人たち、道にテーブルを置いてダッチワイフを横に座らせたおじさん。参加者を眺めているだけでも楽しかった。

小さな街の広くない道はあっという間に参加者でいっぱいになった。
せっかくだからと、オープニングセレモニーの行われている市役所前まで行くことにした私と友人。
詰めかけた参加者に、道沿いの家の窓から地元の住民がホースやバケツで水をかける。
水を浴びながら市役所前にたどり着くと、広場では『石鹸を塗った棒の先に吊るした生ハムを誰かが取ったらトマティーナのはじまり』というセレモニーがすでに始まっていた。
ぎゅうぎゅうの道でしばらくそれを眺めていたけど、いっこうに終わる気配がない。石鹸を塗ってまっすぐにそびえ立つ棒を登れる人などそうそういるはずもなく、つるつる滑ってばかりで生ハムには届きそうもない。
こんなんでいつ始まるんだろう、そう思っていたら、濡れたTシャツが頭上を超えていった。

トマトを待ちきれなくなった参加者が、自分のTシャツを脱いで投げ出したのだ。
濡れているので当たるとけっこう痛い、というのを、顔面にくらって初めて知った。
辺り一帯がTシャツ合戦場と化した。自分のTシャツを投げてしまい投げるものがなくなった男性が傍にいた女性の着ているTシャツを無理やり脱がそうとしてるのを見て、「ヤバい所に来てしまったかもしれない」と思った。
テンションの上がった西洋人はとても危険なのでは。。

ふと、道幅いっぱいのトラックがこっちに向かってゆっくりゆっくりと進んで来くるのが見えた。
Tシャツ合戦に気を取られている間に、誰かが見事生ハムをゲットしたらしい。
いよいよトマティーナが始まる。
そんなことより私がいるのは道の真ん中だ。
道いっぱいに人がいるのに道幅いっぱいのトラックが向かってくる。物理的に考えて無理がある。けれど道いっぱいに人がいるので、どこにも逃げ場はない。予想通りトラックに対して一番前になってしまった。
後ろからものすごい圧力がかかった状態で、トラックを手で押しながら踏ん張る。めいっぱいトラックを押して、自分の体を可能な限りトラックから離そうと必死になった。
前輪をギリギリでやり過ごして、少しホッとして気が緩むのと同時に、背中に耐えきれない程の圧がかかった。
ダメだ、と思った次の瞬間には、トラックの下に転がってしまっていた。

◇◇◇

腕を引っ張ってくれたのが誰なのかはわからなかった。
トラックの下に転がって、引っ張り出されたほんの数秒で世界は変わってしまっていて、夢を見ているみたいだった。
目の前が開けた瞬間、まばゆい世界は青と赤だった。

トマトをそのまま投げるのだと思っていた。当たったら痛くないだろうかと心配もしていた。でも何台ものトラックから吐き出されたそれは、ぐっちゃぐちゃに潰されたトマトと水だった。
足首までトマトと水に浸かっている。
トマト缶の中身を投げ合うお祭りと思ってくれたらわかりやすいかもしれない。

愚かな私と友人は、どうせ濡れて汚れてしまうから、と水着にゴーグルで参加していた。
みんなで楽しくトマトを投げ合うお祭りを想像していた。
甘かった。私たちは完全に的になった。

四方八方から伸びる手が水着を引っ張る。ブラを引っ張られて抵抗してる間にパンツを引っ張られ、おしりにトマトを入れられる。
どさくさに紛れて股間を触る奴までいる。
同時に頭にぐちゃぐちゃのトマトを乗せられ、滴り落ちるトマトで視界が塞がれる。顔をぬぐっては乗せられ、ぬぐっては乗せられ、息つく暇もない。
胸を守りながら顔をぬぐう私のガードはガラガラで、おしりに次々とトマトを入れられ、見知らぬ白人男性に抱えられて宙を舞う。
「もう絶対来ない!!もう絶対来ないーーー!!!!」と叫ぶ友人の声が聞こえたが、トマトで前が見えなかった。

はぐれたら大変と慌てて友人を探すと、少し先にいた彼女は白人男性のハーフパンツに手をかけ、これでもかという勢いで彼の股間にトマトを詰め込んでいた。
すげぇ。防戦一方の私とは全然違う、と尊敬の念を抱いたのは言うまでもない。

15分も立たずに私たちは音を上げた。ここから逃げよう。そう言って中心部から脱出しようと試みた。
トマティーナは始まったばかりでこれからだ。人々は中心部めがけてやって来る。そのエネルギーに全力で逆らって進む。
人とトマトでごった返す混沌の中を、向かってくる人をかき分けるようにして。何度も何度もビーサンの足を踏まれて叫んだ。スニーカーなんかで踏まれるとめちゃくちゃ痛い。けれど止まらずに私たちは進み続けた。
やっと息がつける所まで来た時には、ビーチサンダルはトマトの海に消え、白かった水着はピンク色に染まっていた。

人波から逃れてはじめて、水着のパンツにぎっしりトマトが詰められていることに気づく。
さながらうんこを漏らした幼児のようだった。
疲れ切ってとぼとぼ歩きながら、ボトボトとおしりからトマトを落とした。

悔しかった。
ずっと憧れていたトマティーナ。一度もトマトを投げることなく終わってしまった。それがとても悔しかった。
トマト祭りのためにはるばるスペインまで来たのに、トマト投げてないじゃん私。

髪の毛はトマトの汁でドレッドのようになり、耳の穴の中までトマトのカスだらけ。もうしばらくはトマト食べたくないな、と思うほど自分の体のそこかしこからトマトの香りがする。
着替える気力もなく水着に裸足のまま電車に乗り込んだ。周りの乗客もみんな全身に赤いカスをこびりつけている。今日電車を掃除する人は大変じゃないだろうか、と思いながら床に座った。
ボロボロになってたどり着いたホテルの浴室で髪の毛にこびりついたトマトと戦い、一息ついてテレビをつけるとトマト祭りの様子がニュースで流れた。
さっきまでいたはずの場所は、安全な所から眺めるとずいぶん違う。
トマトを投げ合う参加者はみんなとても楽しそうで、いつかテレビで見て憧れたトマティーナがそこに在った。
それを観ながらいつしか私たちは反省会をしていた。

水着とビーサンは絶対ダメだよ。Tシャツも引きちぎられるかもしれない。もじもじ君みたいな全身タイツにスニーカーが最強なんじゃない?
あまり中心部へ行くのも危ない。周りから徐々に攻めて行くのは?それかほら、トラックの上に登るのもいいかも。あ、いいねあのポジション。

次は絶対、トマト投げる!

◇◇◇

「いつかリベンジしようよ。」そう約束してからもう10年以上の時が経つ。
私も友人も母になり、叶わぬ約束になるかもしれない。
けれど密かに私は、いつかまたあの地に行きたいなと焦がれている。先のことなんて誰にもわからないし。

トマティーナは地元で「バカの集まるお祭り」と言われているらしい。
8月にスペインに行く予定のある方はいかがでしょうか。
美味しい料理、バル、ガウディにダリ、フラメンコ。陽気でおおらかな人々と空気。スペインは魅力的なものだらけです。
ひとつだけ、トマティーナに参加する際は、女性の方はくれぐれも服装にお気をつけて。

「碧空 (へきくう)」…青空。晴れ上がった美しい空。
「蕃茄 (ばんか)」…トマトの和名。

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