夢と現実の境界線が曖昧という話
寝ているときに見る夢。
人によって白黒だったり、夢のなかで夢だとわかったりする、あれである。
私の見る夢は感覚がリアルだ。
強くハグした誰かのしっとりとあたたかい肌の体温。浮きあがった体が制御できなくて天井にぶつけた背中の痛み。踏みしめた石ころのごつごつした硬さ。
いつぞやに、夢のなかで小虎に手を噛まれた痛みで目覚めたときは真っ先に噛まれた箇所を確認した。当然だが、現実の手のひらには穴も開いてなければ血も出ていない。直前まで撫でていた毛皮のやわらかさと痛みの衝撃だけが生々しく残っていた。
小学生か中学生か、そのくらいの頃から味もするようになった。
夢のなかで、まるで硝子のような大きく平たい鼈甲飴をもらい、くちに含むとまさしくあの焦がした甘い味がした。
それ以来、ときどき味がする夢を見る。ファミレスのミネストローネだったり、生クリームがたっぷりのケーキだったり。たいてい起きたあとに、夢だったのだからもっと食べておけばよかったと後悔する。
そんなふうにリアルな夢ばかりなのだが、さすがに夢と現実を混同することはないと思っていた。どんなに感覚があろうと夢はしょせん夢である。
が、大学生のときだった。ふと思い出した小さな頃の情景が、現実的には少々あり得ないものであることに気づいてしまったのだ。
母の実家に泊まりに行った私は、父と近所を散歩していた。雪が積もって景色は白く、東京ではなかなかそこまで積もらないので珍しく、きょろきょろしていた覚えがある。弟はまだ生まれる前なのか、母と留守番をしていたのかわからないが、その散歩には同行していなかった。
途中、ガレージ倉庫というのだろうか、無骨で素っ気ない建物の前を通りがかった。出入口は開け放たれ、大きな窓から差す光でなかは明るく、人だかりができていた。
何をしているのかとそちらを見れば、おじさんが実演販売さながらに布団を売っているのであった。紫と青の星空にポケモンが印刷された敷布団と掛け布団のセットで、当時私が本当に使っていた敷布団と同じ柄だ。幼いながらにぼんやりと、自分と同じ布団を使う人がどこかに存在するのだと思った。
記憶はここで途絶えている。
いくら何でも真冬のガレージ倉庫で、自分の持っていた布団と同じものを売っているわけがない。何度も振り返ったことのある記憶にもかかわらず、ずっと現実に体験したことだと思いこんでいたのだ。
その衝撃たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。
何といっても、もしかしたら同じように勘違いしている記憶があるかもしれないのだ。
そういえば、以前好きな本が文庫本になっているのを本屋で見つけたのだがその場では買わず、後日いくらその文庫本を探しても見つからなかったことがある。
そう、文庫本を見つけたのも夢だったのだ。本屋にもネットにもないわけである。
何が恐ろしいって、友人に単行本で読んで面白かった小説が文庫になってたんだよなんて普通に話してしまっていたし、ひと月くらい書店で本気でその文庫本を探していたのだ。
まだ気づいていないだけで、現実と取り違えている夢があるかもしれない。
夢と現実の境界線なんて思っているよりずっと曖昧なのだ。
これといった害は今のところないけれど、私の記憶にしかない出来事を、実際に起きた出来事だと信じているかもしれない可能性は足元をぐらつかせるには十分すぎる。
そんなふうに夢を見ることが多いせいか、小説にも夢や幻想がよく出てきます。もし興味とお時間ありましたら、以下からぜひ。
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