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【小説】夏の日が暮れていく

 張り替えたばかりの畳に、レースのカーテンを透かした光が注ぐ。青い畳のうえで淡い影が揺蕩う。まるで水面のように涼しげで、そういえば今年のきみはまだ海に行っていないね。
 カーテンを揺らすのは自然の風ではなく、エアコンが吐き出す冷風だ。夏の暑さは暴力的で、きみを損ねてしまうかもしれないから。

 仰向けに寝転がるきみの胸が、呼吸にあわせてゆっくりと上下する。滑らかな皮膚のしたで、心臓が脈打っている。

 せっかく冷房をつけているのに、柔らかな日差しがあたっているせいでうっすらと汗をかいていた。いや、日差しのせいだけではないか。
 よく眠っているきみの隣に寄り添う毛むくじゃらの熱源がひとつ。暑いのだから離れればいいのに、ぴたりとくっついている。
 思わず、ふふ、と笑いを漏らせば、ぴくりと三角の耳が反応した。首をもたげ、黒く濡れた目がぱちりとこちらを見やる。

「静かにね。起きてしまうから」

 しい、と人差し指をくちの前で立ててみせると、賢い友人は伏せの姿勢へと戻った。ふさふさの尾を振り、また目を瞑る。

 髪の生え際に、汗がじわりと滲んでいる。頬もいつもより血色がいい。
 本当は適当なところで起こして、水分を摂らせるべきだろう。わきに置かれたスポーツドリンクのペットボトルはもうぬるくなっているはずだ。
 でも、あまりにも気持ちよさそうに眠っているものだから、つい甘やかしてしまう。ただでさえ不眠気味なのを知っているから、なおさらだ。もっと言ってしまえば、その原因の一端が己にあるという自覚がある。だから、穏やかなきみの眠りを邪魔したくないと思うのは当然だろう。

 閉め切った窓の向こうには蒼穹が広がり、かすかに蝉の声が聴こえる。愛を求める、熱烈な歌が。

 夏だ。
 抜けるように青い夏は眩しすぎて見ていられない。
 過去を倣うだけの視覚が痛む。
 だからまた、視線がきみのほうへと吸い寄せられる。

 わずかに開いたくちから漏れる寝息は深く、浮かべた表情からもきみが何の不安も、悲しみも、苦しみもなく眠っているのだとわかった。
 誰にも邪魔されず、清廉な午後の陽光を浴びながら友人と寄り添い眠るきみの姿は平穏そのものだ。

 いつまでも眺めていたい。
 ずっと、ずっと。きみに鬱陶しいと顔をしかめられても、仕方ないやつと呆れられても、くだらない話なんかしながら、一緒に笑って泣いて、眠りたい。

 蝉の声が喧しい。わかっている。そろそろ、いかなければ。
 三角の耳の友人が頭をあげた。尾がぱたぱたと揺れて、畳を擦る。

「またね」

 まだ、さようならと言うだけの強さはなくて、名残惜しさに目を眇めてみたりする。どうせ、それすら過去の真似ごとにすぎないのだけれど。
 そんな不器用な挨拶に、賢く無口な友人は、手の代わりに尻尾を振って返してくれた。

***

「……あっつ……、」

 寝起きの声は掠れていた。
 冷房がついているのに、日差しを浴びていたせいでうっすらと汗をかいている。カーテン越しでも、夏の日差しは暴力的だ。

 起きあがろうとしたけれど、重力に勝てなくて再び畳へと寝転がる。久しぶりにぐっすりと寝たおかげで頭はすっきりしているのに、どこかからだが重たくて溜め息がこぼれた。
 盆休みに帰ってきて早々、張り替えを手伝わされた畳が薫る。

 なんだかとても懐かしい夢を見ていた気がするのに、思い出そうとすればするほど、それは輪郭をなくしていった。
 脆い夢の最後のひとかけらだけでも失くしたくなくて、必死に両手を伸ばしてみる。目玉みたいな木目の天井は素っ気なく、ぐるぐると渦巻く焦燥感や喪失感くらいしか握った手のなかには残らない。

 隣にあった毛むくじゃらの塊が首を伸ばして、ぬるい舌で拳を舐めた。

「おまえ……今はお菓子なんて持ってないよ」

 そう言って手を開いてみせても、熱心にべろべろと舐め続ける。
 おかげで手はもう空っぽで、でもからだは少しだけ軽くなった気がした。

「くすぐったいって、」

 何とか上半身を起こして、飲みかけのペットボトルに気がつく。すると無性に喉が渇いてきた。
 三角の耳の友人の頭を撫で、ペットボトルの中身を飲み干す。すっかりぬるくなった半透明のスポーツドリンクは甘味を増し、爽快感とは程遠いけれど、水分補給としての役割は十分果たしてくれた。

 昼寝につきあってくれた友人を毛並みにそうようにして撫でていると、スリッパの乾いた足音が近づいてくる。

「ねえ、ちょっと、」

 すらり、と戸襖が開いておばさんが顔を覗かせる。

「ライター知らない?」
「知らないけど」
「ええ、どこやったんだろ。送り火の準備で使うのに……」
「それこそ迎え火でも使ってたじゃん……もうやんの、送り火」
「そりゃあ、ちゃんと帰ってもらわんと困っちゃうからねえ」

 どこ行ったんだか、とぼやくおばさんの声が遠ざかっていく。
 庭では蝉が鳴いていた。命を次へとつなぐための歌を懸命に奏でている。

「……帰っちゃうんだって」

 無口な友人が、ぱたぱたと尾で畳を擦る。
 人間より忙しない息遣いが生々しくその存在を主張していて心強かった。

「好きなだけいればいいのにね」

 かまいたがりで、時折鬱陶しいくらいで、仕方ないやつと呆れても、心底くだらない話をしても、楽しそうにしていたあの笑顔。
 もっともっと、一緒に笑って泣いて、眠りたかった。
 今からでも遅くないんじゃない? 目に見えなくてもいいから。

 やっぱりだめ? なんてったって、律儀なひとだったもの。わかってる。

 長く大きな舌が遠慮など知らぬようすで頬を舐めた。
 くすぐったいよと言ってもやめるはずがなく、諦めて暑苦しい友人の愛情を受けとめることに専念する。でも、おばさんがライターを見つけたら、送り火の準備を手伝わなくてはならない。
 大丈夫、わかっているから。

 白かった日差しが黄みを帯びて、金色に輝く。
 蝉の声はますます喧しくなって、ああ、夏の日が暮れていく。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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