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【小説】15光年ロマンチシズム

 学校が終わった千佳は制服のスカートの端をひらめかせ、コンビニに立ち寄ってからマンションへと向かった。
 そろそろ西のほうから梅雨が明けるはずなのだが、ひと足先に夏日が来てしまったような暑さである。買ったばかりのスポーツドリンクを飲み、滲む汗を拭う。
 白っぽく眩い空のした、どこにでもあるようなベーシックな外観のマンション。エレベーターでは誰とも一緒にはならず、たどりついた最上階の深く煮こんだようなワインレッドの扉を前にインターホンを押したが、いくら待てども静寂しか返ってこない。反応があるほうが珍しいので、千佳は沈黙にかまわず、もっていた鍵で扉を開けた。

 長くはない廊下の突き当りにあるリビングダイニングはひっそりと薄暗く、外ほどではないが蒸した暑さがこもっていた。窓は開けられているようだが風がはいらず、ひとの動きもないのだろう。ならば、と来た道を一歩二歩と戻り、廊下の左手にある締め切られた白い扉の前へと立つ。
 軽く握った拳でノックをして向こう側の気配を探るが、しんと静かなばかりであった。
 これもよくあることなので、千佳はコンビニの袋をがさりと鳴らしながら扉を開ける。

 室内は電気がつけられておらず、窓には分厚い遮光カーテンが引かれ、深い藍色の闇が広がっている。ぼんやりと明るいのは、部屋をぐるりと囲むように置かれたラックに並んだ、大小さまざまな水槽のなかで星々が光っているからだ。

「絢瀬くん」

 貴重な空白である部屋の中央で、大きな体躯を丸めた男はまだ起きない。薄っぺらいカーペットのうえに、やはり薄っぺらいクッションを枕にしてよく眠っている。

「あ、や、せ、くん」

 いくら彼の仕事が夜とはいえ、もう起きていてもおかしくない時間帯だ。千佳は絢瀬の肩をつつき、耳元で袋をガサガサと揺らした。

「……んん……うぅ」

 星明りを受けて、発光するように白く浮かんだ表情が歪み、薄い唇からむずがる声が漏れる。

「起きなよ、絢瀬くん。もう夕方だよ」
「……ちか……?」
「うん、千佳だよ」

 しつこく袋を鳴らすと、眉間にしわをよせた絢瀬がとめようと手を伸ばす。千佳は大きな手から逃れて、起きなよ、ともう一度言った。
 一拍分の静止を挟み、ぐうう、と寝起きの熊のような唸り声を喉の奥から絞り出した絢瀬はのっそりとからだを起こした。それから猫を思い出させるしなやかさで、ぐんと腕を天井に向かって伸ばす。

 はい、と千佳からスポーツドリンクの未開封のペットボトルを渡されて、礼を言いながらパキリと音をさせて蓋を開ける。リビングとは違い、ここは水の満ちた水槽に囲まれているせいか涼しいが、寝起きのからだは水分を欲していたらしい。甘い液体を一気に半分ほど飲み干して、ふうと息を吐いた。
 そんな絢瀬を、いささか呆れた表情で千佳が眺めている。

「また遅くまで仕事してたの?」
「まあね。俺の仕事は夜じゃないとできないから」
「そうだけど、どうせまた、そのままずっと調べものとかしてたんでしょ」

 一度気になったらとまらないもんね、とまで言われ、図星であった絢瀬は何も言い返せなかった。

「お母さんが、時間あるならご飯食べに来てって言ってたよ」
「まじ? 行きたい。おばさんの料理好き」
「来週は?」
「あー……大丈夫、空いてる」

 七夕は終わったし、流星群とかも来ないし、と頭のなかで予定をなぞる。
 絢瀬は、夜空に浮かぶ星を水面にうつしとる『星採り』という、平安時代から続く伝統工芸の職人であった。

 よく晴れた夜、マンションの屋上にあがって、水を張った漆塗りの黒い盥に星空をうつす。しばらくすると星明りがすっかり水面に馴染むので、それを持ち帰って慎重に水槽に移動させ、売り物とするのだ。

 星採りという呼び名だが、月をうつしとることもある。七夕といった季節の行事や流星群のほか、近年ではスーパームーンなども好まれていた。
 昔はまじないや特別な祭事に利用されることが多かったが、現在では『水中プラネタリウム』や『星空アクアリウム』などと呼ばれ、インテリアとして人気がある。水槽のまま飾ることもあれば、水鉢や金魚鉢にうつしかえるなど、さまざまな楽しみかたで愛でられているのだった。

 星採りは水面に星をうつす繊細で特殊な技術、天体にまつわる多くの知識を要する。それに、天候に左右されやすく、より星が見える場所へと頻繁に足を運ばなければならない。ほかの伝統工芸でもそうであるように、星採りもまた職人が減っていて、絢瀬のような若手は貴重な担い手なのであった。

 千佳はぐるりと水槽の数々を見回す。

 昏い水槽にぽかりと浮かぶ、煌々と白に眩い星。燃える灯のような赤い星。蒼白く静かに輝く星。四角に収められた幾つもの夜空たち。

 銀箔や金箔を散らしたように煌めく星雲は、空を直接うつしたのではなく、ほかの職人と協力して望遠鏡などの道具を使ってみた試作品だ。本物はもっと綺麗だったのだと言う絢瀬は不満そうであるが、千佳からすれば十分綺麗な芸術品であった。

 その隣でやわらかい金色の光を放つのは満月だ。兎が餅をつく姿だといわれる陰までしっかりうつしとられている。さらにその隣には、細く笑んでいるような銀色の三日月の水槽もあった。

 細かな光の集まった帯のような見事な天の川があったのだが、それは七夕前に売れてしまったので今はない。今年の分は旬である八月にうつす予定らしい。

「今年の七夕のやつってどれ?」

 そう訊きながら水槽を覗きこむ千佳には、小さな星の種類までを見分けることはできない。いや、中央に三つ、行儀よく並んでいる星があるオリオン座ならばわかるか。
 水槽には律儀に星の名前がラベリングしてあるが、薄暗いなかで目を眇めて一個一個確かめるよりも、絢瀬に訊いたほうがずっと早いのだった。

「えっと、今見てるやつの左の……そう、それ」

 紺の地に雲母粉を撒いたような水槽に、鮮やかに光る星がふたつ。織姫と彦星こと、ベガとアルタイルだ。

「ね、絢瀬くん。あれ、あれやってよ」

 そわそわとした千佳のお願いに、絢瀬は「えー」と渋面になる。

「それ、売り物なんだけど」
「わかってるよ。だから触ってないじゃん」

 一回だけでいいから、となおもねだられた絢瀬は不承不承といったようすで水槽へと近づいた。

「まじで一回だけだからな」
「やった! お母さんに、絢瀬くんの好きなもの作ってくれるように頼んどくね」
「唐揚げがいい。おっきいやつ」

 千佳の母親が作る唐揚げは大きくて味が濃く、白米にも酒にもあう一品である。食べ応えのある揚げ物を思い出してしまった絢瀬は集中するために、軽く深呼吸をした。

 先週うつしたばかり星夫婦の水槽を丁寧に床におろし、ゆっくりと、丁寧に指を浸す。とぷり、と抵抗なく紺色に飲まれた指先を揃え、やはりゆっくりと円を描くように液体を混ぜる。

 ぐるりと一周するごとに漣が立ち、キラキラと光の粒が銀河にも似た渦となる。
 そしてひと際光るふたつの星が渦の中心へとくるりくるり、踊るように引き寄せられていく。
 互いを誘うように瞬く織女星と牽牛星は中央にたどりつくと、抱きあうように重なった。

 それを見届けた絢瀬は、そっと水槽から手を引き抜く。指先からほたほたと透明な雫が落ち、渦へと吸いこまれて小さな銀河へと戻っていった。

 再会を祝福するように煌めく微細な星々に囲まれ、主役たちは楽しそうに波にのって揺らめく。笑うようなささやかな波音が、切り取られた空間を震わせた。

 だがそれも永遠には続かない。しだいに渦は緩んでいき、波は静まる。

 そうすると織姫と彦星の重なりも解け、ゆらゆらと離れていく。惜しむように瞬きながら、じれったいほどにゆるりと緩慢に、もとの位置へと戻る。

 すっかり凪いだ水面を見おろすふたりから、ほう、と息が漏れた。

「……綺麗だね」

 千佳の囁くような声に、絢瀬は吐息まじりに「ああ」と頷く。
 美しい星空のうつしに見惚れていた千佳は、ふと首を傾げた。

「……この星って、別に七夕の日以外でも見えるものなんだよね」
「そりゃあ、星がある限りは。まあ、特別な日の夜空ってのは高い値がつくんだよ」
「ロマンの欠片もない……」
「こっちも一応商売だし。プレミア感っていうの? 七夕当日の星であることに意味がある、というか」

 こと七夕や中秋の名月のような行事となると星採りたちは天気予報をつねに確認し、より空が晴れる場所へと赴く。絢瀬も今年の七夕はここからそう遠くない山のほうで作業をしたが、去年などは雨雲を避けるために新幹線に乗って地方へと移動していた。

 千佳は水槽の側面をつつ、と指で撫でた。水中の小宇宙は素知らぬ顔で瞬く。

「いつだって、星の綺麗さは同じなのにね」
「……そうとも限らないよ」

 見あげた青年の薄く微笑む横顔は、藍色の闇のなか、蒼白く照らされていた。

「今日光っている星も、明日にはなくなっているかもしれない」
「……どういうこと?」
「星も生きてて、始まりと終わりがあるってこと」

 あ、と小さく千佳が呟く。前に学校の授業でそんな話があったのを思い出したのだ。

「星が死んだとして、俺たちがそれを知るのは随分あとになってからなわけだけど」
「えっと、星の光が届くのには時間がかかるから……?」
「そう。ちゃんと知ってんじゃん」

 勉強しててえらいなあ、とどこか面白がる風情で笑う絢瀬に、千佳がむくれてみせる。

「地球とベガは二十五光年、アルタイルは十七光年。ちなみにベガとアルタイルは十五光年離れてるんだけど……ベガの今見えてる光なんて二十五年前のだから、千佳が生まれる前の光だな」
「絢瀬くんだって赤ちゃんじゃん」
「だな」


 水槽を見つめる絢瀬の瞳に光がうつりこみ、そこにも最小の宇宙が生まれる。

「だからさ、仮にアルタイルが死んだとしても、俺たちがそれを知るのは十七年経ってからなんだよな」

 急に心許なさを感じて、千佳は顔を曇らせた。

 想像が追いつかないほど遠い距離。
 今日の夜空に浮かぶ星々も、もしかしたらもうないのかもしれない。それに気づかず、もう存在しない光を綺麗だと愛でる。

 そう思ったら、座っているはずのフローリングの床が脆くやわらかいものになってしまったような、奇妙な浮遊感に襲われた。思わず両手を床につける。

 薄いカーペット越しに返ってくるのはたしかに硬いフローリングの感触なのに、気持ちはふわふわと無重力で漂っているみたいに頼りないままだった。
 さらには隣にいるはずの男までひどく遠くにいるように思えて、千佳は困惑した。
 五帖にも満たない部屋が、途方もなく広い。

 ふいに絢瀬が千佳へと顔を向けた。ふたりの瞳にうつる、ミクロの宇宙がぶつかる。

「俺たち星採りは、いつかの一瞬をうつしとるんだ」

 手荒く扱わなければ、水槽に閉じこめられた宇宙はいつまでもそこにある。半永久的にとどめられた彼方の光。音もなく、煌々と揺らめく灯の群れ。

「それってちょっと、ロマンチックだろ?」
 絢瀬はそう言うと、少年みたいに歯を見せて破顔した。

 くら、と眩暈に似た感覚のあと、失われていた重力が戻る。

 ぱさぱさの乾いたカーペット。
 ひんやりとした蒼い暗がりに、点々と浮かぶ星明り。
 隣には笑うよく見知った男の顔。

 つられたように千佳の頬も緩む。

「なんだ、やっぱロマンなんじゃん」

 千佳がそう言って笑えば、まあね、と絢瀬がはにかむように答える。
 十五光年の距離をいとも簡単に縮める指先が、小さく切り取られた宇宙を撫でた。

<終>

最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。


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