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哲学・日記・メモ 「内容と形式」

その体験がまだ逐一認識を必要としているとき、それは内容であろう。それが認識を必要としなくなったとき、形式となる。しかしこの形式は体験が過去のものとなり「沈殿」して、無意識の中で形式化(構造化と言っても良いかもしれない)されたものであるから、内容は必ず形式に先立つものでなければならない。または意識され認識される内容は、常に無意識に安住する形式に先行するものでなくてはならない。                   
形式はすでに定まったものである。対して内容は定まったものではない。だから内容は常に認識によってこれを確認しながら体験を成す必要がある。つまり内容は意識の領分に在るものであろう。そして内容が形式に先立つものであるとすればこういう事も言えるだろう。つまり「内容がそもそもの始まりである」と。始まりを発起しそれを繰り返す事こそが、内容の本旨であろうから。そしてこうも言える。形式とはすでに定まったものであるのだから、形式自体に自身の更新性はそなく。形式を更新し得るのは内容だけである、と。
例えば、美の普遍的な形式について考えてみる。
もし人類にとっての美が普遍的な形式であるならば、それは普遍的であるがゆえに更新はない。そして更新が内容であるならば、内容は普遍性からの逸脱である筈である。すると以上の考察において次の等式(不等式)が成り立つ。即ち、「形式(=普遍性=真善美)≠内容(=普遍からの逸脱=?)」。さてここで「?」には何が当てはまるだろうか、と言う問いが生じるのであるが、これはなんであろうか?朧な予感ではあるが「ものがたり」なのではないだろうか?と思っています。詩は形式となりうるがものがたりは形式ではなく内容だから。あるいは・・・

2021年5月 岡村正敏

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