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哲学・日記・メモ「考えるという事=問うという事」について

「考えるという事=問うという事」について

「考える」とは「問う」事なんじゃないかな。思い出す才能とか、思い出したものを会話の中に上手にレイアウトする才能は、すでに考えられた蓄積あってのことだからそれに依存している。そういう「蓄積物を取り出し活用する応用性」と「蓄積物を蓄積する更新性」は全く異なる。そして「蓄積物を蓄積する更新性」こそが「考える事」であり「問う事」なのだろう。しかし双方を曖昧に一括りにして「考える」とされていることは多い。かな。

●直観はすでに思惟された蓄積物の直観であろう。だから蓄積物として重ねられたもっとも濃く重なった部分が直観によって抽象されているのであって、だからそれは往々にして本質などと呼ばれたりする。
●しかし直観に出来る事はそこまでであって、つまり「蓄積物に向き合い→抽象に着眼し→本質を抽象する」事までであろう。それは抽象を見出し取り出すだけだから、「新しく思惟を更新し重ねていく更新性」は持ち合わせてはいない。
●では「新しい思惟」と書いたがではそれは何だろうか。それは「問い」ではないだろうかと私は思う。思惟=考える=問うという事。「問い」こそが考えると言う事なのだ、と私は思う。
●よく考えてみれば、文字を音読・黙読しているだけならそれは考えているとは言わない。自分一人で何かを思い出す場合も、思い出そうとしているのであって、実は考えているのとまったく同じなのではない。自分一人ではなく、誰かとの会話において、記憶力のよい人は数多知識を思い出しながら、その知識という素材を会話の状況に当てはめていくだろうが、これも状況に応じたパターンを豊富に記憶していてそれを思い出し当てはめているだけで、考えているわけではない。
●とすると「考える」とは「文字を読む事」ではなく「言葉を諳んじる事」でもなく「思い出す事」でもないのだろう。ではそれはどういうことなのか?
●考えるとは「問う」事なのだろうとおもう。それは「問う」という事に捧げた思惟であり言葉の使用の謂いなのだろう。と思うのです。そしてこれにだけ、対話における思惟の更新性がある。換言すれば蓄積物を蓄積する機能があるし、つまり「問い」がなければ蓄積はなかったのであり、それを抽象する「直観」もなかったのであろう。
●だからそもそもの始まりは「問い」にあるのだろう。と思うのです。

2021年9月8日 岡村正敏

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