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ネパール滞在記🇳🇵नेपाल ट्राभल बुन

沢木耕太郎さんの深夜特急全6巻を読み終えて、自身の若き日の日記を初めて読み返してみました。
異文化の地での日々の交流、現地での人間関係、支援の誤解トラブルや苦悩などが綴られていました。

以下、日記の一部

「ぼくははじめ、ネパールで何ができるかと思っていた。いま思うと何もできなかった。
だが、感じた。
自分を応用しようと思っていた。応用は何一つできなかった。
ぼくという基礎が広がった」

「村に来たのが、昨日のようだ。なのに、こんなにもたくさんの人が、ぼくとの別れを惜しんでくれ、また来ることを望んでくれている。村に居た間は一生分のダイヤモンドだったのかも知れない」

「ぼくがこうして、いろんな国へ行けて、問題意識らしきものを格好つけて持ったり、自由に過ごせるのもみんな、親の理解と応援のおかげだ。ありがとう」


沢木耕太郎さんはネパール🇳🇵の印象の一つを次のように述べています。まさにその通りだと思うのです。
「それにしては、きちんと会話したあとの深い満足感があります。なぜだろう、不思議に思います。もしかしたら僕たちはネパール語でも日本語でもない、幻の共通語で話していたのではないだろうか、などと思えてきます」
(第3巻141pより)

ネパールの人に無性に会いたいです。

現地の子どもたちと


ランタン ゴサインクンドにて 4350m
テェクさん、ラジェンドラさんと


〜経緯〜
1980年、絵を描くために行ったネパールには小学校さえ行けない子がたくさんいることに
おどろいた西村正義先生が個人的な私財で助けてきました。
 1991年、西村先生を慕い、その情熱と想いに打たれた有志が「ランタン基金の会」を設立、
ネパールの子どもたちを、せめて小学校に学ばせたいと多くの方たちのお気持ちと助けをいただ
いて支援を続けました。


◼️目的と事業(会運営規定第2条抜粋)
(1)「ランタン基金の会」は、ネパール国の教育を支援し、豊かで幸せな生活ができるよう援助
 することを目的とします。
(2)この目的を達成するために、次の事業を行います。
①教育施設に対する援助事業
 ○校舎の整備(新設・拡充・補修)
 ○教育設備の整備(黒板・机・椅子などの支援)
②子どもたちの就学支援事業
 ○学用品の支給
 ○就学困難な条件下(母子家庭・孤児・山間僻地など)にあって、特に向学心の強い子ども
  への就学(進学)援助
③校下の生業の向上に協力する事業
④その他、会の目的を達成するために必要とされる事業


< 参考: ネパールの現状とは? >

1.世界一の山国で北海道の2倍の地に、約2600万人が生活している。
2.GNPは、日本の約200分の1、中程度家庭の年収は日本円で5万円。
3.国民の90%が農業であるが耕地が極めて小さく、男は出稼ぎに行き、子どもたちもよその地へ働きにいかなくてはならない。
4.就学率(1990年ユニセフ白書)は、小学校を卒業するもの28%、成人の識字率は男39%、女12%である。

◼️滞在記は次のページに書き残しています。

◼️-1991年からの事業成果(2002年12月末現在)-

1.建設

1)学校建設 
19校 88室

2)孤児の家・寄宿舎
7棟 19室

3)備品・運営費
28校


2.就学支援

1)里子
139家庭 286人
~母子家庭への生活費や学費支援

2)学資のみ
735人
~学費支援のみ

3)ミシン里子
70家庭 161人
~裁縫職(ダマイ)への生活支援

4)ひよこ
162家庭
~繁殖、卵による栄養供給、(売買換金)

5)やぎ
638家庭
~乳による栄養供給、繁殖、(売買換金)


3.生活改善のために

飲料水支援
15集落
延長26,700m

葬儀場
 2棟

トイレ
1集落 32戸


4.交流

現地訪問
31回
延べ52名

教師派遣
 4回
 4名

ネパール語教室
 3回

日本語学校就学
 6人

機関誌の発行 
 通巻264号
2002年12月25日現在





आजभन्दा तीस वर्षअघि म नेपालको बेत्रावती गाउँमा स्वयंसेवकका रूपमा गएको थिएँ ।

मैले नेपालमा दैनिक आदानप्रदान, नेपालमा मानवीय सम्बन्ध र सहयोगका कष्ट र पीडामहसुस गरें ।

'सुरुमा त म नेपालमा के गर्न सक्छु भनेर सोचिरहेको थिएँ ।
तर मैले महसुस गरें।
म आफैलाई लागू गर्न जाँदै थिएँ। मैले केही पनि लागू गर्न सकिनँ।
यसले मेरो जग लाई फराकिलो बनायो।

'म गाउँ आउँदा हिजोको जस्तो लाग्छ, तर धेरै ले मलाई बिदाइ गरेकोमा दुःखी छन् र फर्कन चाहन्छन्। यो जीवनभरको लागि हीरा हुन सक्थ्यो।

'आमाबुबाको समझदारी र सहयोगका कारण म यस्ता विभिन्न देशमा जान पाएको हुँ।
धन्यवाद।"

उचित कुराकानीपछि सन्तुष्टिको गहिरो अनुभूति हुन्छ । मलाई अचम्म लाग्छ किन । यसले मलाई सोच्न बाध्य पार्छ कि सायद हामी नेपाली वा जापानी बोलिरहेका थिएनौं, तर एक प्रेत लिंगुआ फ्रान्कामा बोलिरहेका थियौं।

म फेरि नेपाल जान चाहन्छु । म नेपालका मानिसहरूलाई भेट्न चाहन्छु।


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