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藻琴原野 第八話 博愛

 北の大地にようやく訪れた爽やかな初夏を感じている。
青空を仰ぎそびえる柏の古木や楡の大木の葉々から陽射しはキラキラとこぼれ、風は語りかけるようにまさにそよそよと頬を撫で、Tシャツの袖口の中を 遊んでゆく。
    人口10余万人の北見市の都会的な街並みがまた違うキラキラをもって一望できる高台の場所に立っている。 エゾハルゼミが盛んに緑陰を揺らすようにジーオジ、ジジジ・・・ジと盛んに鳴 き合っている。 かつて野付牛(のつけうし、ヌッケウシ”野の端”の意)と呼ばれたこの北見市一帯は、悠久なる大雪山を源とする常呂川やその支流の合流点として培いあげられ、広大肥沃な平野は東洋一のハッカ産地でもあった。
 スイスの山小屋風の西洋館がこの清々しい空間に溶け込むように構え、佇んでいる。
ここはピアソン記念館。
アメリカ、ニュージャージー州エリザベス市に生まれ、ブリンストン神学校を卒業後、明治21年に日本へキリスト教の宣教師として渡り、北海道へは明治25 年に函館、小樽、室蘭、札幌、旭川など各地で精力的な伝道活動を経て、この野付牛にやってきたのがジョージ・ペック・ピアソンである。
そのピアソン氏がアイダ・ゲップ女性宣教師と結婚し、この当時野付牛にやってきたのは大正3年のことだった。 それから母国アメリカへ帰国する昭和3年までの15年もの間、ピアソン夫妻は伝道活動のほか遊郭設置阻止や貧しい人々の救済など、私財を投げ打ったそれらの博愛的な活動は、その夫妻の人柄の偉大さ、愛、無欲、ユーモア、そして社会教育、精神文化、社会福祉の分野の先駆者として、また当時の人たちの心の拠り所として大きな功績を残し、北見市民の心の中に生き生きと今でも伝えられている。
 この市民が愛する館は大正3年に建設されてピアソン夫妻が15年にわたり生活した洋館を昭和45年に修復し、ピアソン記念館として昭和46年に開館されたも のである。
 実は、藻琴山からの絶景を詠んだ歌人でもあった唐笠何蝶(とうがさ かちょう) は、医師の本業の傍らにピアソン夫妻の博愛精神を受け継ぎ、精力的に日本キリス ト教会の北見教会設立に奔走した神と人を愛した宣教師でもあった。 会堂移設後の第二次世界大戦末期には会堂が軍部に接収されたり、唐笠氏はスパイ容疑で網走刑務所に投獄されるなどと壮絶なる人生を歩み、そしてあの句を詠んだ。
「湖の鷹 樹海の鷹となりにけり」
唐笠氏は昭和31年に句碑が建立された後、昭和46年に永眠されたと云う。
    ぼくは先月の5月、藻琴山でクミちゃんと一緒に心に残る登山が、できた。 それからというもの神社と句碑の存在と、それに関わった人たちの想いというものを何かに取り憑かれるようにずっと追ってきていた。
 今の藻琴山頂上にある碑の山中源吉氏というのは、昭和11年に藻琴山の登山路を切り開くのに多くの功績を残した人であることも少しずつこの胸にわかってきた。
 そして過去の書史には、藻琴山神社は山頂に確かに建立されているようであった。 それは「網走神社奥の院」として、昭和9年9月、ニクリバケこと藻琴原野の一集落、稲富の青年団であった畠沢和一郎、佐藤数馬、成ヶ沢新八、居内末吉、平賀清 一各氏たちが、元稲富集落にあった天照皇大神の石碑を藻琴山頂上に遷座させ、網走神社の間作社司が奥の院として祀ったと記録されている。 大正13年8月2日に網走支庁や当時の網走町の関係者によって踏査され、気圧計により合目が定まったとはいえ、現在の東藻琴村旧山園小学校付近を登山口とした刈り分け道路(昭和11年7年23日工事)さえない頃の話である。
 自分たちの神社の石碑を遷座ということは、大変な労力をもって移動させ、道東一円を一望できる高みの場から広く平等に、往年よりあらゆる方向の暮らしの場から親しまれてきた山に、豊穣をはじめ人々の家内安全や平和を祈願する博い想いが 深くあったのであろう。
 先月、あのとき最後に天原さんに尋ねた神社や祠の今の所在は、ご本人もやや不本意そうにいつの間にか不明という答えであった。 だからなのか、ぼくはこうして時間を見つけては藻琴山の資料や往年を知る人たちを訊き尋ねては、神社や祠の所在を確かめようとしてきているのだ。
 ひとつの句碑には位置の所在をはじめ、この藻琴山からの絶景を見事にたったの17文字の言葉を詠んだ人の凄まじい人生と、そこには博愛の精神と生き様があった。
 そしてまだ、ぼくはその神社、祠の行方を追う旅の途中であることに気づくのだ。 「何故に、今、藻琴山の山頂に人々が想いを持って遷座され、広く里のみなの暮らしを見守る神様がいなくなってしまったのか」、と。
 ジジジ・・・一匹のセミがひとつの梢から飛び立ったようだった。

つづく


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