苦瓜よわが撲つ妻よ茶ぶ台の何も語らぬでこぼこのすぢ【和里田幸男】

苦瓜よわが撲つ妻よ茶ぶ台の何も語らぬでこぼこのすぢ
 和里田幸男

妻への暴力を短歌にするのはかなり難しく、テクニックが要求されます。
というのは、作品としての評価をするうえで多かれ少なかれその作品がもつ倫理的な価値を読者は見積もっているからです。倫理的に良くないことを作品(作者)が肯定していると感じられるものは、低評価をくだされるリスクを負います。
昔ならいざ知らず、現代では妻への暴力はいかなる理由があっても許されない。僕もそう思っています。それにもかかわらず、少なくとも僕はこの歌に作品としての価値を感じてしまいます。

倫理的に良くないことを描いているからと言って、作品の価値自体が必ず下がるわけではありません。映画や漫画や小説など、悪人が出てくる作品はいくらでもありますから。
でも短歌の場合、一人称視点で捉えたものごとを描く形が多く、字数も少ないためにフォローを入れる余裕もない。よって妻への暴力を行う主体を描いた場合、主体がそのことを自らどう評価しているか判断しにくくなりやすい。結局、その行為を作者が肯定しているように感じさせてしまうリスクが出てくるわけです。

この歌でも、主体が「妻を撲つ」ことをどう思っているのかは、にわかには判断できません。
では何がわかるか。
歌の中では三つの物が並置されています。「苦瓜」「わが撲つ妻」「茶ぶ台のでこぼこのすじ」 
これらのうち最初の二つは詠嘆の助詞「よ」がついていて、最後だけない。このことから、最初の二つは主体からの心理的距離がほんの少し遠いのではないか、つまり現在よりほんの少し過去のできごとなのではないかという可能性が見えてきます。
つまり、主体は今リアルタイムに茶ぶ台のすじを見ていて、ほんの少し前にあったこと(苦瓜を見た、妻を撲った)が脳裏に焼き付いていて思い出されてしまっている状態なのではないか。

だとすれば、主体が自分の行為を今どう感じているか推定ができます。「何も語らぬ」と擬人化された茶ぶ台のすじ、そいつは主体の取った行動の一部始終の目撃者です。「何も語らぬ」と書くことで、口だけでなく目(眼球という意味ではなく、意思を持った視線)の存在を言外に示しているのがこの歌の眼目といえるでしょう。
理性を失った自分の行動が、誰かに見られていたという感覚。何も語らない茶ぶ台のすじは、主体の行為の是非を問いかけているようでもあります。主体に芽生えているのはおそらく罪悪感とか、羞恥心とか呼ばれるものでしょう。
自らが発見した自身の心の歪さが、苦瓜や茶ぶ台のでこぼこに象徴されています。

以上のことから、この歌では、作者が妻への暴力を肯定しているわけではないと感じさせます。
それだけでなく、理性を失った時間の次に訪れる一瞬の気づきやそれによって生じた強い動揺を、複数の体言のなかに適切に詠嘆を入れることで追体験させる、テクニカルな歌であることがわかります。

朝起きて眼鏡はどこかと問う妻を理由もなければ殴ることなし 久真八志

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