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縄跳びを教へんと子等を集め来て最も高く跳びをり妻が【奥村晃作】

今回はほっこりする感じの歌を紹介します。

縄跳びを教へんと子等を集め来て最も高く跳びをり妻が
奥村晃作

歴史的仮名遣いなので慣れない方には読みづらいかもしれませんが、内容を理解するのは難しくないと思います。あえて書き下せば「妻が縄跳びを教えようと子供たちを集めて、いざ始めてみると一番高く跳んでいたのは妻だった」となるでしょう。
しかし書かれているエピソードだけでない、主体(夫)の気持ちが文章から伝わってくるのがこの歌のよいところ。一連のエピソードを見たときの夫の小さな驚きと、あたたかい心持ちが感じられます。

実はこのエピソード、子供と大人ですから、大人が一番高く跳べるのは当たり前です。が、「妻が」を最後に持ってきて文章を倒置にすることで、様々な効果を生んでいます。
一つは「教える」「集め来る」「跳ぶ」など矢継ぎ早に動詞を出しつつも動作の主体をぼかすことで、その正体が誰なのか、読者である僕の関心を最後まで引きつけてくれる効果。
「妻が」で謎は解けるわけですが、これは手品で布をかけた帽子から布を取るのに似ています。布が取れた瞬間、帽子に観客は注目してしまうのと同じように、「妻」がこの歌の中で最も注目すべきところだと僕に伝わる。つまり強調されます(※)。したがって、主体(夫)のもっとも気持ちの動いたポイントが「妻」に込められていることが感じ取れます。
※倒置法で主語を最後に持ってくることは、主語を強調する効果がもともとあるのですが、動詞の畳みかけで強調をより増している点がこの歌の構成の巧いところ。

夫が妻の高く跳ぶ姿にどのように気持ちを動かされたか。いくつか解釈があると思いますが、僕は「妻の再発見」という形で読みました。
上で述べた通り、高く跳んだ人が、他の誰でもない「妻」であったところに主体の心の動くポイントがあります。とすれば、妻の跳ぶ姿に意外性があったとみてよさそう。普段の妻の様子はわかりませんが、跳んだ高さに暗示されているように「子等よりも」遊びに真剣に興じている姿は、大人っぽくはないので、意外さを感じてもおかしくはない。
主体その姿に驚きつつも、ポジティブな気持ちで見ていることが感じられるのは、すでに述べたように手品のような仕掛けが文章に込められているから。この歌は倒置というレトリックが目立つために、主体の口をついて出た独り言というよりは、夫が作品を通して読者にこのエピソードを語っているような印象を受けます。主体は手品師のような振りで、最後に「妻が」を出して見せている。
「ね、うちの妻って面白いやつでしょう?」
と言いたげな様子から、主体自身の憎めないキャラクター、そして妻への気持ちのあたたかさが感じられます。

子と妻を詠う短歌のなかでも、よくある「妻子」のイメージ、例えば慈愛のあふれた光景を描くものはだいたい成功しません。しかしこの歌には「妻」だと思っていた一人の女性への再発見の目線があり、よくある妻子像の提示とは一線を画しています。


妻が縄持ち出してきてその足を結わえるあいだ朱鷺は鳴かない 久真八志


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