夫はたぶん知らないだろう抱きかかえるように拭きます便器というは【前田康子】

夫はたぶん知らないだろう抱きかかえるように拭きます便器というは
 前田康子「黄あやめの頃」

妻の「私は使わないけど好きにしたらいいよ」の後押しを受けてウォシュレットを導入した我が家では、便器の掃除は僕の担当です。別に便器掃除自体は好きではないのですが仕方ありません。待望のウォシュレットなので愛着がなくはないのですが……

特に便器の奥、裏側を雑巾で拭こうとすると手を伸ばして、まさに抱えるような体勢になります。便器の中が顔に近づいてしまうんです。頭にこびりついた衛生観念のせいか、汚物の痕跡に近づくのはどうしても嫌な気持ちになります。
掃除中というのは比較的ルーチンワークというか、あまり強い感情は生じにくいものだと思いますが、便器を抱くように拭くあの瞬間は別です。非常に強い感情が生まれます。その強い感情の主成分は嫌悪です。単に近づきたくないというよりは、「近づいてはいけない!」と脳のどこかで危険信号が発されているような嫌さ。

冒頭の歌はまず「便器を抱きかかえる様」を「人と抱き合う様」に見立てるという面白い着想から成っています。しかしこの見立てだけではちょっと面白いぐらいで終わってしまう。
そこで「夫はたぶん知らないだろう」という一言を加え、自分の立場として「妻」を示しつつ、「不倫」へと見立てをスライドさせている。これが二つ目に優れたところ。こうして生じるストーリー性は、まるで昼のドラマのよう。背徳と愉悦の感情、主体の昂揚が興味関心をかきたてられます。

物語として描かれる「不倫」って、この背徳のなかの愉悦が最もおいしいところだと思うんですよね。近づきたいけど近づいてはいけない、どちらも強い情念があるがゆえの葛藤だから面白い。というか、ダメと言われるからこそ破ったときの快感はひとしおなわけです。
不倫相手に近づくときの背徳感と、便座に近づくときの嫌悪感。本来は全く違う感覚であるはずですが、近づいてはいけないという感覚を橋渡しにうまくつながっています。だから便座に近づくときの感覚、あの抗いがたい生理的な嫌悪感の強さが、そのまま不倫の背徳感の強さに置き換えられる。それゆえに主体の感じている愉悦も尋常でなく強く感じさせる。この歌の三番目の工夫にして、最も優れている点です。これは便器だからこそ成立します。

穂村弘さんがよくやる改悪例をちょっとマネしてみます。これが例えば便座ではなく「植木鉢」だったら。
[改悪例]夫はたぶん知らないだろう抱きかかえるように拭きます植木鉢というは
植木鉢を不倫相手に見立てていることは理解できますが、「なんでこの人、植木鉢にこんなに燃え上がっているんだろう?」という気持ちになってきてしまいます。主体と僕との間に通じ合う感情がありません。
やはりこの便器は替えがきかないようです。

妻が入ったあとのトイレを臭いなと、思う。慣れた祈りみたいに 久真八志

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