No.611 最後まで読んでいただけたら有り難く存じます
『ひまわり』(原題はイタリア語「I Girasoli 」)は1970年(昭和45年)のドラマ映画で、イタリア、フランス、ソビエト連邦、アメリカ合衆国による製作です。主演はアントニオ役のマルチェロ・マストロヤン(46歳)とジョバンナ役のソフィア・ローレン(36歳)です。言葉以上に雄弁な二人の表情は、芸術品のように繊細で、その喜びも苦悩の悲しみも輝きを放っていました。時が磨いた本物の役者の矜持が見て取れました。
2020年に50周年記念の上映が行われ、今年、2022年には半世紀も前のロケ地であったウクライナへの侵攻を受け、再び上映が行われました。私は、先日、BS放送で観ました。
そのロケ地となった広大で壮大な「ひまわり畑」は、ソビエト連邦時代のウクライナの首都キエフ(現、キーウ)から500km南のヘルソン州だとされていましたが、ウクライナ中部のポルタヴァ州北部の村だという説もありました。圧倒的なヒマワリの楽園です。
ロシアの国花は「ヒマワリ」と「カミツレ」だそうです。その「ヒマワリ」には、「憧れ」や「情熱」の意味もありますが、「あなただけを見つめる」という花言葉もありました。アントニオとジョバンナの二人の関係を象徴しているように思いました。戦争によって引き裂かれた夫婦のその後の悲哀は、観ていて痛ましくなります。
参戦したイタリア軍はロシア軍に負けて大雪原を撤退して行くのですが、映画『戦争と平和』を彷彿とするような身も凍りつく惨劇が待っていました。そして、これがアントニオの人生の運命的なターニングポイントに繋がって行くのです。
一方、「ひまわり」のような芯の強さをもったジョバンナは、自ら行動して奇跡的に夫を探し出したのに、モスクワで待ち受けていたのはアントニオが新しい家族を設けていたという過酷な現実でした。天国から地獄へ。ジョバンナは傷心のままミラノへ戻ります。
今度は、アントニオがミラノへ向かい、嵐で停電したアパートの暗闇の中で再会を果たします。しかし、ジョバンナも新たな家族を持っていました。アントニオは、「二人でやり直そう」と訴えますが、折しも隣の部屋から聞こえて来た赤ん坊の名はアントニオでした。それぞれの人生の旅立ち(訣別)が始まっていたことをアントニオは悟るのです。
翌日のミラノ中央駅のホームは象徴的です。モスクワ行きの汽車に乗るアントニオをジョバンナが見送りに来ました。このホームは、以前モスクワの戦場へ行く若き夫を見送った時と同じホームでした。初めの別れは、再会を約束する別れでした。二度目は、永遠の別れを意味していました。「希望」を送り出したホームは、「絶望」を送り出す皮肉なホームとなってしまったのです。「あなただけを見つめ」ながら、永訣したのです。
現代の若者たちは、二人の駅での悲しい別れをどう見たのでしょうか。私には忘れられない読売新聞のコラム「編集手帳」(2009,2,27)があります。是非ご一読下さい。
〈汽車の窓から手をにぎり/送ってくれた人よりも/ホームの陰で泣いていた/可愛いあの娘が忘られぬ…〉と昔の流行歌「ズンドコ節」にある。列車の窓が開かない今、こういう別れの光景も目にしなくなった◆窓のせいではない携帯電話のせいだと、ジャーナリストの徳岡孝夫さんが月間「文藝春秋」に「別れが消えた」と題する随筆を寄せたのは2年半ほど前である◆親指ひとつで、さっき別れた人にメールが送れる。すぐに返信が来る。駅に出向いて泣いたり、手を握ったりするまでもない。「ケータイは人から別離を奪った。別離の後に来る孤独をも奪った」と◆別離のいとまがない〝つながりっぱなし〟の文化はさらに底辺を広げたようで、文部科学省の調査によれば中学2年生の約2割が日に50通以上のメールを送受信し、入浴中も携帯電話を手放せない子供がいるという◆いつか散るから花がいとおしいように、別離と孤独があるから人もいとおしい。ホームの陰で泣いてくれる「可愛いあの娘」がいたわけではないが、携帯電話のない時代に青春期を過ごせたことを幸せに思うときがある。
鮮烈な印象を残したこのコラムニストは、竹内政明氏だったと思います。一度だけお便りを差し上げたら、田舎者の戯れ言とゆるがせにせず、懇切丁寧な手書きのお葉書を頂き、私は心を鷲掴みされました。
日本人の心が変容しつつある21世紀なのでしょうか?