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No.787 何をもって不幸せと?幸せと?

その昔、大分大学教育学部教授だった種友明先生(1935年~1995年)は、1988年(昭和63年)4月~1991年(平成3年)3月まで同大学付属養護学校長(現、付属特別支援学校長)も兼務しておられました。
 
その種先生が、大分合同新聞「灯」欄に寄稿したコラム「不幸と言わないで」をご一読いただければと思い、少し長いのですが紹介する次第です。1990年(平成2年)の丁度今頃の記事です。種先生は54歳でした。
 
「私どもの所のような養護学校の生徒を『不幸にして障害をお持ちのお子さん』と表現する方がある。あるいはこの子たちの両親の中にも、広い世間のことだからそう感じておられる方があるかもしれない。だがこの子たちの中に自らの運命を不幸だと嘆く子はいない。自らが嘆かない命を、他人が『不幸』と決めてかかるのは『この人たちに比べて自分は幸せだ』と思う健常者の思い上がりではないかと恐れる。不幸だと見なされるそこに不幸の主因がある。幼時から弱視に近かった私は終生矯正不可能。色弱。結核の手術もした。輸血による慢性肝炎、糖尿病の併発もある。と言って己を不幸だと思ったことはないから『不幸』と同情されたら戸惑うばかりである。
 当事者が不幸だと思わない人生なのだから、同情ではなくて、完全に健常者と対等の人間としての尊厳を認めていただきたいと思う。現状におけるこの子たちは、まだ人々の高所からの憐憫の目によって外見的に保護されているに過ぎない。周囲から本当の隣人にしてもらってはいない。社会の真の理解が得られていない証拠に、世間がこの子たちにする接し方には、常にある種の不自然さと当惑が見て取れる。頭で理解はしても、対岸から同情の目で眺めてはいても、自らが彼らの中にあって苦楽を分かち合うことはない。いや、できないと言うほうがよいだろう。
 それは手がかかると思う。まだるこしいかもしれない。でも遠ざけないで一生仲間として共に生きていただきたい。言うまでもなくこの子たちは、自らの意思でかく生まれてきたのではない。健常者と同じく神の思召しである。どうか、わが子わが兄弟と同じに考えていただきたい。いやそれ以上に社会全体の至極当然の義務として、こうした人たちの権利と尊厳を、健常者全体で守りぬいていただけたらと願うものである。」(全文)
 
その種先生は、その5年後の1995年(平成7年)に60歳で亡くなられ、21世紀に生きる教え子たちの姿を見ることはできませんでした。先生の筆は、読む人の心を導いてくれます。考え方のススメを説いてくださいます。もっと先生の言葉を聞きたかった、教えていただきたかったと、大変惜しまれました。それでも、先生が蒔かれた心の種は、今も健やかに成長していることでしょう。
 
今日、2月7日は、
「クリスマス佛は薄目し給へり」
と詠んだ俳人・相生垣 瓜人(あいおいがき かじん、1898年~1985年)が、88歳で逝った日だそうです。好きな句です。

※画像は、クリエイター・nadiさんの、タイトル「HELP EVER HURT COVER」をかたじけなくしました。お礼申し上げます。