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No.839 42回目の三月尽

「十年一昔」と言われる時代がありましたが、その意味で「三昔」も前のお話です。
 
高校生用教科書を作りたいという某会社が2回目の審査用紙を送って来たのは、私が不惑の年を目前に控えた、燕がたくさん飛来してくる頃のことでした。「各作品の採用の是非について批評してほしい」とのご注文です。
 
その分量は、300頁以上もあるシロモノですが、提出期限は半月後という厳しいスケジュールでした。全国にも、私と同じやり甲斐とそれゆえの大変さを味わわれた方がおられたことだろうと推測します。何とか読了し、必要事項を詳細に記入して返送しました。
 
数編の随筆作品の中に、向田邦子の「ごはん」(『父の詫び状』所収)がありました。「国語」の教科書に彼女の作品が採られることが嬉しくてなりません。戦争の渦中にあって、家族とは、生死とは、人の世の幸せとは、有り難さとは何かを嫌でも考えさせられます。私は、大きい〇を付けました。
 
 原稿用紙6枚前後のこのエッセーは、
「『空襲。』この日本語はいったいだれがつけたのか知らないが、まさに空から襲うのだ。」
から始まります。東京は、終戦の日までに100回以上も空襲を受けたと言われます。特に昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲では、8万~10万人におよぶ犠牲者を出したと言われます。その直前の頃のお話でしょうか。
 
「真っ赤な空に黒いB29。そのころはまだ怪獣という言葉はなかったが、繰り返ししつように襲う飛行機は、巨大な鳥に見えた。」 
「火の勢いにつれてゴオッとすさまじい風が起こり、はがき大の火の粉が飛んでくる。」
「乾ききった生け垣を、火のついたネズミが駆け回るように、火が走る。」
「三方を火に囲まれ、もはやこれまでというときに、どうしたわけか急に風向きが変わり、夜が明けたら、我が隣組だけがうそのように焼け残っていた。私は顔じゅうすすだらけで、まつ毛が焼けてなくなっていた。」
「さて、この後が大変で、絨毯爆撃がいわれていたこともあり、父は、この分でゆくと次は必ずやられる、最後にうまいものを食べて死のうじゃないかと言い出した。」
「母はとっておきの白米をかまいっぱい炊き上げた。私は埋めてあったさつま芋を掘り出し、これもとっておきのうどん粉とごま油で、精進揚げをこしらえた。格別のやみルートのない庶民には、これでも魂の飛ぶようなごちそうだった。」
「もっと食べろ。まだ食べられるだろ。」
「おなかいっぱい食べてから、親子五人が河岸のマグロのように並んで昼寝をした。」
 「戦争。
 家族。
 二つの言葉を結びつけると、私にはこの日の、みじめでこっけいな最後の昼餐が、さつま芋の天ぷらが浮かんでくるのである。」

それは、戦時下の「ごはん」の悲しいまでにおかしい思い出でした。空襲の後に食べた昼ごはん。明日をも知れぬ命を前に厳父が下した最後の贅沢が、記憶も鮮やかに蘇ります。匂いの漂うような思い出でした。
「おなかいっぱい食べてから、親子五人が河岸のマグロのように並んで昼寝をした。」
の一文に惚れ惚れします。我を忘れて寝入った表現が、たまりません。
 
向田邦子の作品は、人の心を締め付けて解き放ちます。心の奥深いところに到って、初めて彼女の微笑みに接しられるような感懐に陥ります。そして、その温もりが、次のページへといざなうのです。「ごはん」は家族や、幸せや、平和を象徴するものであり、何人もゆるがせにしたり侵したりしてはならぬものだというメッセージにも感じられるのです。

「向田邦子さんという人は、私より小説が上手です。それから随筆も私より上手です。」
と作家・山口瞳に言わしめた才媛・向田邦子は、1981年(昭和56年)8月22日、飛行機事故(塩水により与圧隔壁が腐食し、貨物室の外板が破壊したことが原因)により乗員乗客110人と共に台湾で帰らぬ人となりました。享年51。
 
ファンの心に生き続けている彼女が逝ってから42回目の三月尽です。


※画像は、クリエイター・take_futa(竹風太)@元塾講師さんの、タイトル「📕2021.03.02 竹風太の料理日記」をかたじけなくしました。お礼申し上げます。