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No.552 ある日のラジオで…

就職してから数年間、40km程離れた勤務校に自家用車で通勤しました。朝6時過ぎに出発するために、5時半に起きました。今は亡き母ですが、毎日5時に起きて朝食と弁当を作ってくれました。いつまでも敬慕し思慕する私の恩人です。
 
ある日の通勤途中、車内で聴いたラジオの話に感激した事があります。
 「セネガルのその女性は、若くして子どもを産んだので学校を中退したそうです。しかし、どうしても弁護士になりたくて、再び学び始めました。家は貧しくて電気も通っていません。そこで、学校が終わってから暗くなるまでの間、公園で勉強しています。
 勉強なんて、やろうと思えばどこでもできるのでしょう。机や自分の部屋がなくても、環境に恵まれなくても、『志』さえあれば出来るのだと、この女性は教えてくれます。」
パーソナリティーは、穏やかな口調でそう語りました。
 
「志」があっても、学ぶ機会さえ与えられない子女も少なくない国があります。しかし、劣悪な環境の中で、生きることに精一杯であっても、志を曲げず、寸暇を惜しむことなく勉強する人がこの世界にいるという事実に、背筋が伸ばされる思いになりました。日本でも、そんな時代はあったに違いありません。ふと、朝ドラ「おしん」(1983年~1984年放送)の奉公しながら苦学するシーンを思い出してしまいました。
 
恵まれた環境の中にありながら、不平をかこち、不満を垂れて、学ぶことから逃れようとする豊かな国の子どもたちもいます。ハングリー精神を失ったスポーツ選手が勝てないのと同じように、「知りたい、学びたい」という思いや「夢、希望」がなければ、長続きできません。自らの強い志に裏打ちされるから、辛くて大変な中にも学ぶ楽しさが生まれるのでしょう。
 
詩人の吉野弘さんは、
「『怏』の中に『快』がある」
とおっしゃいました。怏々として、不平不満ばかり感じて楽しめないのは、何も『山月記』の主人公・李徴だけではないのでしょう。私たちも、ついつい愚痴をこぼしたくなる日々です。しかし、「怏」の字をよく見ると「快」の字が含まれています。不平不満の募る中にも、自分を見出し自分を伸ばせるものが内在しているのではないか。自分の成長を促す楽しみを発見することが出来るのではないか。詩人の「気づき」に目が醒まされるようでした。
 
セネガルのあの時の女性が、その後、どんな人生を辿ったのか知る由もありません。それでも、志ある彼女に開けた道はあったのではないかと想像しています。「怏」の多かった人生の中に、きっと「快」を見出しながら。