見出し画像

恋愛や結婚は文化的?―自己啓発・組織運営に効く文化人類学入門#16

第9章 恋愛結婚文化人類学

 恋愛や結婚について、文化人類学の視点で考えます。

 最初に、性のとらえかたが多様化しつつある現代、かつてのように一人の男性と一人の女性が出会うというイメージ限定で恋愛や結婚のことを考えることはできなくなりました。

 性や性行動は多様化し、セクシャル・マイノリティーについても、文化人類学の角度からフィールドリサーチが行われ、研究が進んでいます。

 しかしここでは、その問題は取り上げません。

 男性と女性が出会って恋愛や結婚をするとはどういうことかについて、文化人類学的な視点から考えます。

生物学的か文化的か

 恋愛・結婚は、生物学的な要素が占める割合が大きいにもかかわらず、きわめて文化的な問題です。

 ですから一度、文化人類学的に考えておいて損はありません。

 一例として、エディプス・コンプレックスをあげます。

 フロイトの考え方が背景にある理論です。

 男の子は思春期を迎えると、母親に理想の異性像を投影するようになります。

 ところで、どれだけ自分が母親を慕っても、母親の異性の相手は自分の父親であるという現実が立ちはだかります。

 それで、父親をライバル視するようになります。

 この葛藤を経験する仲で、父親を乗り越えることができたときに、男の子は一人の男性として自立できるという理論です。

 この心理的危機を上手に乗り越えることができないとき、男性性に未成熟な部分を残したまま成人します。

 いわゆるマザコンです。

 マザコンは、婚姻関係を継続する障がいになります。

 母親への思慕が残存したままの状態では、配偶者の女性を異性として意識することが難しくなります。

 この心理構造が人間に普遍的に見られれば、それは生物学的な問題になりますが、文化によって差があるならば、文化的な問題として考えなければなりません。

 文化人類学者のリサーチでは、エディプス・コンプレックスのない民族・文化が存在することがわかっています。

 母系社会では起こりにくい現象のようです。

 恋愛や結婚は文化的な現象として理解する必要があります。

愛ってなに?

 日本語では異性間の恋愛感情を愛と言います。

 しかし、愛ということばは、他の場面でも使います。

 親子の間の感情も愛ですし、人のために犠牲になって死を選ぶ感情も愛です。

 実は、男女の恋愛感情、親子の親愛感情、犠牲になる感情、この3つをわけることができる言語があります。

 聖書が書かれたギリシャ語では、男女の恋愛感情はエロス、親子の親愛感情はフィリア、犠牲になる感情はアガペーです。残念ながら、日本語でも英語でも、この3つは区別できません。

 どのように違うのかを、方向性で説明します。

 エロス 相手から自分に向かうことを期待する、相手を奪う感情。

 フィリア 自分と相手の間に双方向で動く感情。

 アガペー 見返りを期待せず、自分から相手に向かう感情。

 男女間の感情はエロス、「好きになる」気持ちです。

 しかし、それだけで婚姻関係が継続できるわけではありません。

 親子の感情に近い、人を人として尊重できるフィリアのような感情も必要ですし、時として、自分が犠牲になるアガペーの感情も必要です。

 恋愛から結婚を考える時には、3つの視点を丁寧に見る必要があります。

 愛感情だけで結婚すれば、破綻する確率は上がります。

 それだけでは無理ということに気づき、柔軟に双方向の感情を取り入れたり、場面によっては犠牲になるスタンスを取ったりしてみます。

 日本語で「愛」で片づけられていることを、もう少し文化人類学的に分析してみる必要があります。

文化と文化の出会い

 一人の男性と一人の女性が出会い、結婚します。

 しかし、一人と一人というユニットではなく、もう少し幅広く考えておく必要があります。

 男性も女性も、それぞれ文化を持っているということです。

 生まれ育った家庭で身につけた文化を、ここでは「原文化」と呼ぶことにします。

 結婚すれば当然、異なった文化がぶつかり合います。

 それが文化のぶつかり合いだということに気づかずに、離婚することもあるかもしれません。

 一人の人が海外に出て異文化体験をすると、バイカルチャー(2文化)な人間になります。

 一度バイカルチャーな人間になると、単一文化の人間に戻ることはありません。

 結婚は2人の原文化のぶつかり合いです。

 ぶつかり合うと、化学変化が起きます。

 夫の文化だけで夫婦の文化を形成することもなく、妻の文化だけで夫婦の文化を形成することもありません。

 違う文化が出来上がります。これが健全な結婚のあり方です。

文化の違いの調整

 結婚後、以下のプロセスを経て、文化の違いという現実に向き合います。

 1 違いを文化の違いとして認識する。相手を責めることからは何も生み出されません。

 2 違いを認識したら、相手の文化の受け入れられるところを受け入れて行く。

 3 第3の文化を生み出すという発想で、互いに調整を行う。

 ここで大切なのは、文化人類学的視点である「受け手本位」の考え方です。

 こういったプロセスを通して、その夫婦独自の文化が生み出されて行きます。

 子どもが生まれたら、それがその子にとっての原文化になります。

ウチとソト

 ここで、日本的な部分に目を向けます。

 日本語で自分のことを「ウチ」と呼ぶことがあります。自分の家のことは「ウチンチ」になります。

 ウチという概念はとても日本的で、西洋合理主義的な個のとらえかたと違います。

 日本では家の境界線のところに塀を建てます。これも1つの象徴です。

 それより内側が「ウチ」、外側が「ソト」です。

 ウチとソトを分ける境界線は塀です。

 ウチでは個は埋没し、家族単位で動く発想が優勢になります。

 また、必ずしも個人個人が尊重されず、無礼講が許されます。

 子ども部屋は鍵はなく、家族が入ることができる場合もあります。

 ところが個が確立した文化では、ウチとソトを分ける境界線は塀ではなく、個人です。

 その人の内側がウチ、その人以外の人がソトです。

 これはかなり大きな文化的違いです。

 結婚するときには、家族同士が結婚するのではなく、個人が個人と結婚します。

 しかし文化人類学的には、自分にもウチがあり、相手にもウチがあることを理解しておく必要があります。

ウチから個へ

 結婚をするときに、このウチとソトの概念が邪魔になることがあります。

 一人ひとりの個が、ある程度確立していることは結婚の前提です。

 背後に家族がいるウチの概念は、夫婦関係をギクシャクさせる要因になります。

 夫も妻も、それぞれ自分のウチから、ある程度距離が取れることは大切です。

 丁寧なプロセスを経て、夫も妻も一人の個なのだという意識を強くして行く必要があります。

 恋愛や結婚は、文化人類学的視点でとらえておくべきテーマです。

 続く ―次回は最終回、まとめです。


サポートしていただけると大変嬉しいです!