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うまいことやってもらってばかり

大阪に帰ってきて、学生時代からの友人と飲んだ。
「おけらが学生時代、俺らと過ごして影響受けたことってあるの?」
唐突に聞かれて考え込んでしまった。
「俺らはおけらみたいに確固たる自分がないというか、人生の選択権が自分にあると思って生きてこなかったからさ」
自分ではいつも迷ってばかりで、流されて生きてきたつもりだったので驚いた。


思えば、僕は人に譲らせ「うまくやって」もらってばかりだったと、彼らと過ごした学生時代のことが浮かぶ。

鍋パーティーをすることになって、なんとなくキムチ鍋になる流れだったのに
「俺は胡麻豆乳鍋がいいな…」とこぼして白い鍋を囲んだこと。
サークルの何人かで行った日雇いバイトの帰り、先輩たちに連れて行ってもらう夕飯で焼肉の流れになったのに「しゃ、しゃぶしゃぶ…」とこぼしてしまったこと。
「僕はこう思う」と表明することに、僕が思う通りにしたいという意図はないのだけれど、その表明が少なからず相手に譲渡を強いることに、僕はあまりにも無頓着に生きてきた。


テーブルを挟んでこちらを見る2人は本当に良いやつで、「良いやつ」とまとめてしまう自分の語彙力のなさが憎くなるほど良いやつで、そんな2人に僕は幾度となくうまいことやってきてもらったのだろうと、今はもう戻れない学生時代を悔いる。

「しんじとこないだ飲んだ時に言ってたよ。おけらとネタ作りしてると、大体否定されて、しまいには人格まで否定されてるような気分になってくるって」
しんじとは、学生芸人時代の相方で、笑い話として話す相方の様子が頭に浮かぶが、自分でも自覚していた部分もあって、申し訳ないことをしたと、また悔いる。


「確固たる自分がある」
と見られる原因はなんなのだろうか。
それは意固地さと、「俺はこう思う」と表明することへの捉え方の違いかもしれない。
一度そうと決めると他人の考えを聞かない意固地さがあって、それでいて軟弱な思考力から導き出された考えはズレていていつも悪目立ちする。



良いやつのうち1人は銀行員になって、良いやつであるが故に「晴れてる時に傘を渡して、雨が降った時に傘を取り上げる」とも言われる金融業の厳しさに葛藤した。
飲みの席で、仕事を辞めようか迷っているとこぼしたこともあった。
そんな彼は今、顧客を一番近くで見ているのは自分だと、上司に食い下がって案件を通すほどになって、昔より少しシワの増えた顔で昔と変わらない声で笑って、いつも何も言わず飲み代を払ってくれる。
金を扱うとはいえ、人を見ることが何より大切な仕事なんだと、彼が語る姿を見て感じた。
人を見るためには、人に興味がある必要があって、サークルの会長をしていた時にはOBにその不甲斐なさを叱責されてばかりいた彼が、誰もが知るメガバンクに採用されたその理由が今になってわかった。



ぼくは人に興味がないのだと思う。
それは、我が道を行く的な格好いいことではなくて、人の紆余曲折で泣き笑いができなくて、無意識のうちに人を傷つけたり譲渡をを強いたりする、ただただ自分勝手な特性だ。
空気を読まず、ズレた自分の考えをこぼして、うまいことやってもらってばかりいる。

そんな自分は「うまくやれなくて」仕事を辞めたこれから、どんな仕事で食い扶持を稼いでいけば良いのだろう。
ズレた意固地さを独創性と信じて、創作で飯を食いたいとも思っていたが、頭が悪いからどうしようもない。
けれど、帰阪の際のお土産代ぐらいは稼げるようになってみたいとも、思い続けてしまう自分がいる。

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