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【小説】次の春もあなたとともに

 「ごめんね、すーちゃん」

 幼い頃、お母さんにそう言われたことだけは覚えている。その後も何か言っていた気がするけど、その時の私には難しかったのだろう。何についてかは記憶にないし、とにかく大泣きしていたことだけが頭の隅っこに置いてあった。桜の花びらが舞う記憶と一緒に。

 この春、私は社会人になった。地元の大学を出て、就職を機に東京で一人暮らしをすることになった。地元の会社なのに、東京での仕事の方が忙しいらしい。本社での研修もあるので、定期的に実家には帰れる。何回も伝えたけれど、家を出る話をするたびにお母さんは寂しそうな顔をしていた。

 3月。初めての一人暮らしと就職の準備で、毎日が慌ただしく過ぎていった。この家にいるのも残り一週間。小学生の時から使う学習机の椅子に寄り掛かり、天井を見上げる。この天井を見るのは次はいつなんだろう。私がいなくなったら、この部屋はどうなるのかな。
 考えたって仕方がないのに。少しだけ天井がぼやけて、目から溢れた滴はそのまま耳の中に入っていった。

 家を出る三日前。お父さんが寝た後のリビングでお母さんと二人きりになった。なんとなくテレビを見て、なんとなくスマホをいじって。この時間ももう残り少しなんだと思った。お母さんは温かいお茶を入れてくれた。

 「東京は電車なんてすぐ来るのよね。車なんて乗ることもないのかしら」
 「移動はほとんど電車だって。お父さんとは大違い」

 車社会のこの街では電車に乗る方が珍しい。隣の県まで行く時に乗るくらい。そんな機会は、月に二、三度あるかないかだ。いずれ、この街のことを地方だ、田舎だと思ってしまうのだろうか。
 ボーッとテレビをみつめながら考えていると、お母さんが席を立ち何かを持ってきた。それは古く色あせた白いアルバムだった。何枚かページをめくると、私の方へアルバムを向けた。

 「これね、あなたが二歳の時よ。三人で東京に行ったの。覚えてない?」

 それは見覚えのない写真だった。大きな赤い鉄骨の前で、私たち親子が笑顔で写っている。撮影用のスペースだったのだろう。手前には日付の書かれたボードが置かれていた。それは二十年前のちょうど今の季節だった。

 「私もお父さんも、あまり東京に行ったことがなかったから。せっかくだからってデートコースを回ってみたのよ。あなたも、あんなに高いところは初めてだったからね。ものすごく泣かせちゃったわ」

 昔の記憶を懐かしみながら、お母さんが写真を指でなぞった。白い花柄のワンピース。とても可愛かった。お父さんは格好つけてジャケットなんて羽織っている。いつもは適当な格好ばかりなのに。小さい私は、フリフリの服を着て、お母さんの腕の中でよく分からない顔でカメラを見つめていた。

 「近くに公園があってね。とても桜が綺麗だったわ。三人で花びらを捕まえようとして。夕方にはあなた、ぐっすりだったんだから」

 そんな都会に行っても、美味しいお店や立派な建物のことより、季節の花が思い出になる人だ。お母さんとこうして話す時間もこれから少なくなる。アルバムを見ながら、私は鼻をすすった。

 「お母さん、私がんばれるかな」

 私の声は潤んでいた。アルバムに涙がいくつか溢れた。母は隣でゆっくり私の背中をさすりながら話を聞いてくれた。

 「大丈夫よ。がんばれる。でも、いつでも戻ってきていいんだからね」

 お母さんの入れてくれたお茶は、とっても温かかった。

 出発の日。お父さんが新幹線の駅まで車で送ってくれた。いつもお母さんは助手席に乗るけれど、今日は後ろの席で私と並んで座っていた。車に乗った時はどうでもいい話ばかりしていたのに、駅に近付くにつれ、会話は少なくなった。私はこの街の景色をずっと見ていることしかできなかった。山が、緑が、花が、空気が、とても綺麗だった。

 駅に着いたのは出発の一時間前。駅ビルの中で、お父さんが飲み物とお弁当を買ってくれた。袋を渡すお父さんの手は、とても大きかった。

 改札近くのベンチに三人で座る。私を挟んで、お父さんとお母さんが座ってくれた。いつもより静かな時間だった。

 「あのね。これ、すーちゃんに持っていて欲しいの」

 お母さんが、ゆっくりとカバンの中から小さなケースを取り出した。エンジ色の細長いジュエリーケースだった。お母さんがその箱を開けると、中には小さなダイヤのついたネックレスが入っていた。

 「どうして?大切なんじゃないの?」

 お母さんは滅多にアクセサリーをつけない人だった。あまりそういうものに興味が無かったのかもしれない。だからこそ、とても綺麗に保たれたケースを見て、一目で大事にしているのだと分かった。

 「いいのよ、すーちゃんに使って欲しいの。アルバム見てたら思い出しちゃって」
 「アルバム?」
 「三人で東京に行った時に、このネックレスをつけて行ったのよ。東京タワーに上った時に、あなた、怖くてたくさん泣いちゃって。下りてからもグズっちゃって。抱っこしてたら、このネックレスを掴んで離さなかったの。そのうち、これが欲しいって泣きはじめちゃって」

 ネックレスは、結婚して初めての誕生日にお父さんがお母さんに贈ったようだった。華奢なシルバーの輪の中に、小さなダイヤが輝いている。お母さんによく似合うと思った。

 「ごめんね、これはあげられないの、ってずっと言ってたのよ。なかなか諦めなくって。だから、ようやく渡せるわね。あなたに持っていて欲しいの。何かの機会に使ってくれたら嬉しいわ」

 お母さんがケースを閉じ、私の手に握らせた。お母さんの手は小さいけれど、とても優しくて温かかった。
 お父さんが立ち上がり、私の頭に手を置いた。大きな手で優しく髪をなでると、ゆっくり改札の方へ向かう。もう、時間だ。

 最後まで涙は我慢した。お母さんも、お父さんも笑って送ってくれた。最後の最後まで、私の姿が見えなくなるまで、大きく手を振ってくれた。

 4月。小さな部屋で、外にも出れず、会社から送られてきた資料をひたすら読む日々が続く。東京の街は、思っていたよりも人が少なかった。どうやら、本当の街の姿ではないみたいだ。

 毎日のように、お母さんから連絡が来る。私と連絡が取りたくて、スマホに変えたらしい。なんとか連絡は取れるが、昨晩は写真が送れないと耳元で言っていた。

 小さな机の上で資料を広げていると、お母さんからメッセージが届いた。

 "そちは大丈夫なの?こちらはチユーリプが咲きました。"

どうやら、小さい字の入力もまだ分からないみたいだ。その代わり、庭に咲いた真っ赤なチューリップの写真がメッセージに添えられていた。ただでさえ外の景色が恋しいのに。お母さん、右上に少し指写ってるよ。

 少しだけ、胸が苦しくなった。ただでさえすぐに家族のところに帰りたいのに、世界はそうさせてくれないみたいだ。だけど、大丈夫。机の隅に置いた エンジ色のケースを見つめる。

 私は、今できることをやろう。
 次にお母さんに会える時まで。



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「ごめんね、すーちゃん」という書き出しの文章が夢の中に出てきたので、そこから物語を描きました。
今年の春は、桜をあまり見れませんでしたが、来年の春、一緒に見られますように。今はおうちで過ごせればと思います。

作:大久保忠尚

いただいたサポートは取材や今後の作品のために使いたいと思います。あと、フラペチーノが飲みたいです。