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EVERYDAY大原美術館2023 vol.5「キリコは電気羊の夢を見るか?」

曇り空。雨がいつ降り始めるのか、不安な気持ちを持ちながら、美観地区を訪れた。こんな天気だからなのか、観光客はまばら。地元倉敷に住む私にとっては、山ほど観光客に来てほしいという思いと、できれば私が行くときは空いててほしいという思いの両方が共存する。なんとも勝手なもんだ。

今日の一枚は、前回、ムンクがかかっていた「この1点」から。ちなみにこの作品は、7月2日までかかっている。

ジョルジョ・デ・キリコ作「ヘクトールとアンドロマケーの別れ」

ナカムラさんのキリコ

生身の人とそうでない人

絵の中央には、二人の人。左は男性、右は女性のように見える。
肩幅、特に肩の開き方で男性ぽい、女性ぽいが表現され、太もも、お尻、ふくらはぎなど下半身はぽさが伝わってくる。

軽々しく「人」だと言ったが、人であるかどうかはまだわからない。人の形をした「人」のようなもの。それはマネキンのように形状だけが「人」の場合もあるだろうし、アンドロイドのように機械でできた「人」の場合もあるだろう。またサイボーグのように「人」とメカとの融合された場合もあるだろう。

三角定規

この絵を特徴的にしているのは、三角定規の存在ではないだろうか。子どもの頃、三角定規の神秘にワクワクしたことを覚えている。「ピタゴラスの定理」を知った時、何?ピタゴラスって誰?定理ってなんか宇宙の法則みたいで真理ってやつか?とワクワクしたことを覚えいる。
三角定規には宇宙の真理がある。人間の肉体とは数学的な真理を持ってしても解ききれない神秘的な存在であることが、たくさんの三角定規を見て感じる。

背中にはシステム

背後を見ると、何やら機械仕掛けのものが見える。人は血縁、地域、宗教、学校・会社など目に見えないシステム(環境)、知識や能力、偏見、いろんなものから逃れられず、機械システムのように動いていることがある。
運命という言葉はあまりに論理に欠くが、背中に背負うもの全てが象徴化されている。ちょっとした調整器具のようなものもあり、ハードモードやイージーモード、日本で言えば厄年などだろうか、多少の差異は作れるようだ。

やっぱり二人は

人を描くとき、人間の体の作りや目に見えないものをどうやったら描けるのだろうと作者は考えたのではないだろうか。
たま一方で、本当は生身の人間なのだけれど、どうしても実物を描くことができない場合もある。例えば、時代の人、政治家、有名人などの顔出しNGなこともあるはずだ。本当は生身の誰かだが、人間らしい何かに置き換えて描いてはいるが、その神秘と背負って生きるシステムを目に見える形で残したのかもしれない。

記念写真のよう

別れを惜しむ二人だとしたら、もっと見つめったらいいのにね。二人ともこちらを向いている。記念写真を撮っているかのようだ。この二人は別れを惜しんでいる状況は今はなく、そうであった姿を作者が描いたとすれば、劇的にカメラを向いた別れの姿を描くのではないだろうか。

生身の人と同じ

そうやって見てくると、どこか生身の人に見えてくる。映画「君の名は」(もちろん古い方)を思い浮かべながら、自分たち二人の人生ではあるが、戦争や血縁などから別れざるを得ない、そんな悲しいストーリーを思い巡らす一枚となった。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。人間でない絵を見ながら、人間的な刹那を感じる作品でした。



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