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実体なき教室が人間関係のいざこざを解消する
教室とは一種の牢獄だ。そこには一切の自由がない。また目に見える人間関係によって人々は委縮してしまう。教師と生徒の関係から教師間の関係、生徒同士の力関係など。これは結果として自発的ではあるが「空気を読む」という人間関係の委縮を生み出し、生徒たちの可能性を著しく殺す可能性があることが言える。
学校においては実体があることによる弊害が多いということに多くの人が気づいてはいない。集団行動というものは一種の「平等の強制」みたいなもので、「出る杭は打たれる」という構図を生み出しやすい。結果、教師は生徒より偉いという目に見えない権威を発生させ、教師と生徒間のコミュニケーションを阻害する可能性があるということだ。
また公立の学校は競争社会ではないため教師にも驕りが見受けられるようになりこれが生徒に対するハラスメントや権威的な脅迫へと繋がっていると考えられる。
学校とは生徒を預ける親と教師の信頼関係の中で成立するもので、ここには当人である生徒本人の意思は介在しない。どの学校に行きたいのか。どの先生の授業を受けたいのかなど。生徒の自由がほとんどないということがいえる。授業を受ける本人たちに自由がない状態だからこそ、その中で発生する不満は他生徒へと向けられる。全て自由なき空間の中で圧迫されているからこれに至るのだ。
例え意思があまり見受けられない生徒であったとしても、逆にそういう生徒だからこそ彼らの意見をいうのを定期的に確認しそれを反映する努力を重ねなければいけないと私は考えるのだ。
しかし、これは従来の学校のシステムでは難しいところである。なぜなら生徒たちが教師に対して、さらに言えば学校そのものを信用していないからだ。結果悲惨な事件は後を絶たない。
これはまさに従来の学校のシステムが引き起こした生徒からの不信任の表れだろう。まさにこれは解消されなければいけないのだ。生徒たちを救うためにも。
私たちの活動も自由な教育を目指しての行動の一つだ。勉強とは子供の時だけのものではなく一生のものだ。故に様々なツールがあっていいと思うのだ。学びたいという意思は常に尊重されるべきである。それはキャリアップに繋がるかもしれないし個人としての質を高めることになると考える。
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