組織と理想の指導者像(2)指導者像,そこにあるもの「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第41回

共通する指導者像
 
私が数年来池田を観察して気づくのは、本から知った毛沢東、そして故ケネディ米大統領といろいろな点で共通する特質をもっていることだ。もとより、それは指導者としての普遍的なもので、とくにケネディや毛沢東と限定するまでもないかも知れない。池田自身も、「ある意味で一つの新しい社会をつくりあげていく道程は、どうしても共通点がでてくるのなのでしょう」という。なるほどそうかもしれない。
 元来、この二人と池田を比較すること自体、あるいは不適当かも知れない。
 第一ここにあげた二人とも、最高の権力者であり、池田は、無冠の指導者であって、権力者ではないからである。その意味では、両者との比較は池田にとっては迷惑なことかも知れない。しかし、いずれも大衆社会のリーダーとして、そこに共通する指導者像を探ることは、決して無意味ではないと思う。
 池田と毛では、根本の哲学も違うし、もちろん、毛沢東が武力を背景に、多くの血を流して革命を成し遂げたのに対し、池田はただ一人の犠牲者も出さず、無血革命による理想社会実現を目指す点では、決定的な相違がある。だが、それでいて両者とも歴史に多くを学び、時代への適応にきわめて柔軟性を発揮してきた点など、いろいろな面で、共通性をもっているように思われるのである。
 以下、私の気づいた毛沢東あるいはケネディの特徴的な点をビックアップしながら、池田との共通点をみてみよう。

毛沢東との比較
 
毛沢東について昭和十年代に書かれたエドガー・スノー著「中国の赤い星」という本がある。革命運動に入った毛沢東が、中国共産党を結成、主席になっていく半生を、直接毛の口から聞いたもので、毛沢東ものの原典といわれている。彼が毛に会ったとき、毛はいまの池田とほぼ同年配であったようだが、スノーは毛から受けた印象を「彼のうちに運命のある力が感じられることは争えない。それは線香花火のようなものでなく,一種の強固な本質的生命力である」という。私もまた、池田から発する強い本質的な生命カのようなものを感じてならない。
 ここでスノーは「毛は天賦の機敏さをもち、古典の学者であり、優れた演説家であり、異常なまでの記憶力と、人なみはずれた集中力をもち、有能な文筆家であり、倦まざる読書家である。哲学と歴史の深い研究家であり、西洋哲学の多くの書を読んでいた。また、義務的事務には驚くほど細心であり、疲れを知らぬ精力家であり、天才的、政治的、軍事的戦略家である」と書いている。
 池田は動作はもとより、対外的、対内的問題に対する処理も非常に機敏である。古典についてよく知り、演説家としても第一流だろう。池田が、すぐれた記憶力をもっているのには、私自身、これまでしばしば内心驚かされた。われわれジャーナリストの目からも文筆家としてすぐれており、池田が読書、とりわけ歴史に学んだことはすでに書いた。
 哲学の研究は、池田の専門の分野といってよい。彼はまた、事務的にきわめて緻密であり、その行動力は超人的なものすら感じさせる。
スノーは、毛の人情家の側面や、誠実な印象を記しているが、池田についても同じことがいえよう。両者の類似は、情勢に対する適応の仕方についてみれば、一層はっきりしてくる。
 毛は革命運動の過程で、急進派から「改良主義者」と攻撃されながら、ロシア革命の“都市から農村へ”の方式を取らず,農村から都市への方式によって,革命を成功に導いたと書いている。
 池田も七百年前の日蓮の哲学思想を、実践面では現代に適応して創価学会を発展させてきた。たとえば、難解な日蓮の「御書」は、ただ直訳するのではなく、その意味するものを現在の生活様式に当てはめて、今日的に説く。それによって、現代に生きる数百万民衆の心のなかに日蓮の思想が生き生きと蘇ってくるのである。組織にしても昭和三十年代までは、折伏によるタテの系列に重点がおかれていたが、各地の会員の密度が濃くなるにつれ、しだいに居住地を中心とするプロックが並行して用いられるようになった。
ここに共通するのは、二人とも現実の適応性にすぐれ、戦術的に弾力的な考えをとる点である。
 共産革命の中核として毛が建設した赤軍は、厳しい規律を根本とし、しかも、スノーのみたところでは、規律は自発的に課せられたものであったという。池田に指導される創価学会の規律もむろん自発的なものといってよい。なんとなれば、池田の指導は学会員の生活や行動に対して、何ら物理的拘束力をともなうものではないからである。
 毛沢東は自軍に十倍,二十倍する敵に勝つため、機動性をもつ遊撃隊を組織し、四つのスローガンを掲げた。「敵進我 、敵止我擾、敵避我撃、敵退我進」である。それはつねに自分に有利な時期を判断することが、戦術の要諦であることを示したものであった。
 池田も“時”を選ぶ判断の重要性を強調する。公明党の衆院進出のように、機が熟するのを待つこともあれば,ことの性質によっては,間髪を入れず敏速果敢に行動する。簡潔な言葉で行動目標を表わす点でも共通するといってよい。
 毛は一九三三年、蒋との戦いで,九万の兵士を引きつれ、河西解放区から延安まで十万キロの道程を一年間かって移動する。いわゆる大長征である。若い青年を中心とした兵士たちは,この苦難の長征で、モミガラのついた麦を食べながら、ほとんど脱走者を出さず従っているのは、毛の確としたリーダーシップを示すものだが、池田のすぐれた指導性については今さらいうまでもあるまい。
 「中国の赤い星」によれば毛の軍隊では一般兵士より、指揮官たちの死傷者が圧倒的に多い。ひどい時は半数の指揮官が戦闘に倒れている。「ものども進め」でなくて「ものども続け」が当時の赤軍のならいだったといわれる。
 創価学会の戦いにおいても、池田自身、幹部を指揮しながら、学会員の先頭に立ってきた。
 事実、一般会員にくらべると、幹部は日常生活で経済的にも、肉体的にも、時間的にも幅広い活動をしている。上級幹部になればなるほど、責任が重く、苦労が多いのが実態。幹部が一般会員の先に立たなければ、大衆はついていかないという池田の指導が、組織内に徹底しているからだが、これはいかなる組織についてもいえる普遍的なものだろう。要はそれがなかなか実行できないだけのことである 。
 毛に指揮された軍隊は、若い青年だけが中心だったが、池田に指揮される創価学会も、青年部が中核である。池田は、仏教の指導者だから精神主義的なことは当然だが、戦後何回か北京を訪問して、中国首脳と会った自民党議員の一人は、毛沢東の中国の精神主義的な面を強調し、共産主義というより、むしろ民族主義的色彩が濃いとしている。
また、池田にしても、毛にしても、苦難の中に絶えず明るい目標を見出して、自分の行動を律してきたふうである。
 毛沢東は老齢となってからも、いつも北京を留守して地方を旅行しているといわれる。創価学会の組織が、微動だにしない強固なものとなっても、池田は生涯、地方一般会員との接触を止めることはないだろう。
毛はユーモアに富み、農民ともわけへだてを感じさせないといわれる。池田の幹部会その他の会合における話も、軽快なユーモアを混えた話しぶりが特徴である 。その時の表情、口調、呼吸など、ユーモラスな雰囲気を活字で現わすのは不可能だが、ともかく、しばしば聴衆の笑いを誘う話術の巧みさをもっている。
 概して、バランスのとれすぎた人間は、話していて面白味にとぼしいものだが、池田の話はウィットが利いて相手を飽きさせない。池田自身、ユーモアの効用について「人間革命 につぎのように書いている。
 「平凡な、庶民的なユーモアの中から、どれほど多くの人たちが感動し、勇気づけられたかは、歴史をひもといてみれば、すぐわかることである。それはちょっとした人間らしさの発露が相手の人間性の本質に訴えかけて、人生の機微の潤滑油となったからである」
 池田は、幹部に対して読むこと、書くことの重要性を強調するが、毛も、読み書きを非常に菫視して、解放地区では必ず言葉を教えたという。
スノーによれば、毛は革命に身を投ずる以前、北京の図書館につとめていた頃、連日克明に新聞を読み、ジャーナリスティックなセンスを身につけていたという。池田も雑誌編集の経験を経たため、ジャーナリスティックな感覚をそなえている。そして、ともに時代の流れに対する洞察力、つまり、予言的な能力を備えていることだろう。
 スノーが毛沢東に会ったのは、毛が長征の末、延安についた一九三四年(昭和九年)のことだが、毛はこのとき、日本がいずれ敗れることを予測している。それから十一年後の一九四五年(同二十年)日本の敗戦は現実となって、毛の予言は的中した。
 一方、池田も戸田への信頼を通じて、創価学会が今日の十分の一、いや百分の一にもみたない時から、しばしば今日の発展を確信をもって断言している。
 だが、こうした点について池田はつぎのようにいう。
「大きな時代の流れを見きわめなければならないのは当然だが、同時にそうなるそうしてみせるとの確信と努力が必要だ。どちらが欠けても洞察はなり立たない。腕をこまねいての単なる予言はナンセンスでしかない」

ケネディとの比較
 
たとえ百年先か二百年先であっても、日蓮の思想、哲学が必ず世界に広まり、個人の人間革を通じて、やがて、戦争のない理想社会が実現される。池田はそう堅く確信する。彼にとって,広宣流布の達成は決して幻想ではない。実現可能な理想である 。
 今から二十年足らず前、わずか三千世帯程度しかなかった創価学会は、一千倍以上の驚異的発展を示した。だが、国会議員の議席数だけをとっても、広宣流布のひとつの目標となっている三分の一 の獲得にはまだまだほど遠い。それでも創価学会員の多くが、池田という指導者を通じて広宣流布の実現を確信している。
 「御書には、広宣流布は大地を的とするよりも確かだと書かれている。それを目指さなければならないとしても、はじめのうちは正直なところ夢物語のように思えた。それが、池田会長と会ってはじめて、この人についていけば、必ずできると思った」広宣流布に確信を抱くに至ったある幹部の述懐である。
 ケネディ時代、大統領特別補佐官をしていた、歴史学者A・M・シュレジンガー著「ケネディ」によると、ケネディは婚約時代、ジャクリーンから「あなたは自分をどんな人間と思っているか」とたずねられたとき、「幻想なき理想家だ」と答えた。ケネディはこの理想に向かって「大変なペースで生きた」(ジャクリーンの言葉)といわれる。
 一方、ケネディ時代の大統領特別顧問C・ソレンセンはその著「ケネディの道」で「慎重な実際的態度の底に、根本的目標に迫る自信と、目標を達成しようとする異常なばかりの決意が秘められていた」と書いている。
理想を幻想に終わらせない点では、池田は毛とも共通するが、ただ池田の場合は、自分だけでなく、何十万、何百万という人たちをもつけてきたことだろう。
 シュレジンガーは、こうも書いている。幻想なき理想家に育て理想達成への決意を植えケネディは「狂熱的な読書家であり、食事中や、浴槽の中、ときには歩いている間でさえ、一分間に千二百語も読んだ。読書範囲はほとんど米英の歴史書と伝記に限られていた」「彼の読書と引用の性格は、彼の知性のもつ歴史的性質をよく示していると思う」
 「彼と会ったことのある大学教授は,時事問題を歴史的観点でみ、歴史の流れを未来に投入する才能は非凡だったという」
 池田の確信する仏法は、人間の生命、宇宙を因果の法則で説いている。これを碁礎にして、彼は三千年前の釈迦の昔にさかのぼって今日あることを実証し、未来における広宣流布の必然性を仏法史観に立って展開するのである。
 ケネディはまた、いかなる事態に遭遇しても、ものごとを冷静に処理する特質をもっていたとされている。私は池田も同じであると思っている。相手の傲慢さに対し、怒り心頭に発する場合でも、池田の怒りは単に衝動的なものではなく、いつでも一たんは、彼の理性で濾過作用が行なわれているように思う。
 池田は「相手をよくしたい目的で、手段として怒ることがあってもよい」というが、幹部に対する厳しい叱咤も、そうしたものだろう 。
 シュレジンガーは「歴史的精神は、分析的にでも、ロマンティックにでもなれる。最高級の歴史家はその両方を備えているが、ケネディはその一人であった」としている。いわば歴史的観点から、未来のビジョン(理想像)を描く能力を指したものだろう。ビスマルクは「政治は可能性の技術である」といったというが、政治についてみれば,現状のなかでなにができるかだけでなく、将来への方向性を見出すことが大切なはずである。
 その点、池田が現代の物質的繁栄と精神的立ち遅れの間のギャップを埋めて均衡のとれた社会建設に着目していることは、彼のすぐれた歴史的粘神を物語っていよう。ケネディは行動の人間だったが、第一級の知識人に対しても、ひけをとらない自信をもって接したという。
 池田もここ二、三年来、知識人の部類に数えられる外部の人たちと接触する機会が、比較的多くなった。私の知る限りでも、経済界の指導的立場にある一部の人たち、幾人かの大学教授、ジャーナリスト、作家、そして諸外国の外交官、外人ジャーナリストなどだ。
 そのほとんどの人たちが池田を一般的な尺度で第一級の人物と評価している。私はそのうち何人かの人から、はじめて池田に会った印象を直接、間接に聞いて来た。
 ある人は、池田の国際政治、国内政治に対する見識を高く評価し、またある人は、様々な問題について、池田が言葉を渇さずテキパキ応答する知識の広さに感心する。そして、会話を通じて、池田の考えが予想に反して、合理的であり、客観的であり、観念的ではなくて実際的であり、かつ自由であること。いいかえれば、一宗教団体の指導者のワクに 当てはめていた先入観の誤りに気づくようである。
 同時に、池田のもつ雰囲気が既成の宗教につきまとう古いイメージと異なる、明るい近代性、しかも数百万の人たちから力を感ずるのである。師と仰がれている池田から、神秘的でない人間的魅力を感じるのである。
以上、池田と毛、ケネディをめぐってその特徴的な点を対比してきたが、やはり多数の大衆の心をつかみ、そこに確固たるリーダーシップを確立するものは、指導者と権力者の違い、またそれぞれの国の環境、民族性、思想の相違を越えて、共通する面があるといえそうだ。それは同じ人間を対象とするからに違いない。