第2話感想。 又吉直樹は歩いている

1話・2話と観てきて、とにかく非常に、徳永が歩いているシーンが多いことが印象に残る。あの頃の又吉さんもやはりいつも歩いていた。実際にその姿を見ていたわけでなくても何故か、ずっとずっと歩いていたのだろうとわかった。

歩いていたということが、ちゃんと、美しく表現されているだけである程度「火花」の映像化は成功している気さえする。

***

―「さっきルミネの出待ちのお客さんにね、走りながら通用口から出てきたら拍手されてね。どんだけおじいちゃんみたいや思われてんねやろって…」

ライブで話していたな。

―「君を高円寺三鷹、散歩隊長に任命する!」芭蕉も一茶もこの声を聴いたんだ。

こんな言葉で締められたコラムも、どこかで昔読んだなぁ。

2話を見ながら、昔又吉くんを好きだった頃の小さい記憶がたくさん出てくる。

夜中に住宅街を散歩していると「麻婆豆腐!」という幻聴が聴こえてきたという話とか、

原くんと又吉くん2人で電器屋でテレビを眺めていた時に初めて道端でお客さんに「線香花火さんですよね?」って声かけられて。その時テレビにKinkiKidsが映っていたので、めっちゃアイドルに憧れてる2人みたいやった、とか。

又吉くんのエピソードはいつも日常の側にあった。見たこともない変な人がでてきたり、とんでもないミラクルが起きた話はあまりなかった。少しだけ、生きている時のリズムがずれてしまっていたり、「隙」にはまってしまう。それはたとえば賑やかな授業中の教室が何故か一瞬静かになった瞬間のような、ハッとして、気まずくて、ちょっと怖くて、よく考えたらどうでもいいような、だからこそ印象的なような。見事に的確で気持ちの良い視点だった。そして驚くべきは、一見そういった機微に鈍感そうな相方の原くんも、その「違和感」を受け止め隣で一緒に笑っていたことだった。

それが線香花火だった。

もしも、こういう言葉を使うことを許されるのであれば、又吉直樹の作る漫才は純文学だった。極論の表現だし、もはや凡庸な表現になってしまうかもしれないけれど。

言葉がちゃんとしていて、繊細で、どこかもの哀しいことが可笑しい。

だから好きだった。

「火花」のスパークスの漫才でいえば。「寂しくて、インコを飼って言葉を覚えさせようとするけれど、そもそも未来の自分の寂しさを紛らわすために、今の自分が「鳥」という存在に一人で語りかけていることが一番寂しいんじゃないか」というような話は、やっぱりだから、又吉くんぽいんだよなぁって。

極力又吉くんに似せて演じてくれていた林遣都くん本当に感謝しながら。

歩いていた、漫才をしていた。そういえば昔の又吉くんにはそれしかなかったんだった。

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