大きな声で語るということ
一つ、気をつけていることがある。なるべく大きな声で話さないことだ。声は大きいほど、比例して正しく聞こえてしまうからだ。確かに、声が大きいというのはある程度自信に比例するだろう。自信があるのであれば、正しい可能性は小さくはない。少なくとも、小さな小さな、消え入る声で発される、太陽の光で今にも蒸発しそうな朝露のような意見に比べれば。
一方、こうも取れる。声が大きいからといって、自信があるからといって正しいとは限らないのだ。テストを思い出そう。自分の解答に対する自信は、予定ほど正しくはなかった。自信にも、根拠があるものとないものがあるし、根拠があると思っているものが正しいとも限らない。ともすると、大きな声の意見は、思っているより正しくない。
大きな声は厄介だ。正しく聞こえる。シンプルでわかりやすく聞こえる。情熱があるように聞こえる。原体験があるように聞こえ、話者の個人的な動機付けに強く絡んでいるように聞こえる。聞き手の感情に無粋に、直接的に働きかける。心を、ゴム手袋をつけずにわしづかみし、揺らす。直接的に。感情がぐらぐらと揺れる。途端に、人間は大きい声を選択する。無思考に。脊髄反射を用いた、見せかけの二者択一は出来レースに乗ってゴールイン。大きな声は苦手だ。
ぼくはあまり声が大きいとは言えない。声帯的に地声がかなり低い方だし、腹式呼吸などというのもよくわからない。たぶん、できていない。できているのかわからないくらい、知らない。興味もない。
しかし、その声の小ささは、何も生物学的な理由だけで成り立っているわけでもない。どちらかというと、精神的事情が有意に働いている。つまり、何か意見を発するタイミングになると、途端に声帯が萎む感覚がする。一夜の関係を持とうと、いざ性器を女性の性器の前に据えると、恋人を思い出して萎えてしまうようなアレ。恋人的な何かが、ぼくの声が自信満々に勃起することを阻む。行為前に萎えるくらい、恥ずかしく、屈辱的なことなのだ。
話すことは嫌いだ、と初記事に書いた。一方、書くのはいい。なるべく公平に、結論に到るまでに用いた要素を並べて、吟味し、紹介するというプロセスを踏んでも違和感が出ない。むしろ、そのような「話さない」「話せない」ことこそ文字へと書き起こす意義があるくらいだ。話すとは、単線的で、シンプルへと押し込む絶望的な圧力がかかる。何が結論ファーストだ。何がPREP方だ。そんな陳腐で類型化された表現なんて、糞食らえだ。だから今日も散文を書いてる。エッセイのフリをした愚痴の掃き溜め。個人的免罪符。カトリック的随筆。
話すことは、不可逆的でもある。それもまた嫌う。振り返って、論理や前提をさらうことができない。話す側も面倒臭くなって省略、聞く側も振り返るくらいなら、と適当にあたりをつけて早合点。齟齬が起きる。齟齬は、人間的精神的な溝となって、関係性を阻む。関係性に発症した癌細胞は、取り返しのつかない速度を持って増殖、転移。気付いたときには時すでに遅く、身体中を蝕む。抗生物質飲んでもいいけど、ハゲは免れない。関係性の脱毛症。もちろん比喩だ。
とどのつまり、小さな声、もとい自信のない声にはそれなりの事情があるということだ。極めて個人的な事情が。小さな声の彼は、自信が持てない。あらゆる物事は、人間が認知しているより多角的で複合的で、相互依存的であることを知っているからだ。単純化させ「要点を3つに」なんて、絞った話し方をすると、自分が世界に対して嘘つきであることに嫌気が差してくる。声が小さい彼は、人に対してより、世界に対して誠実でありたいのだ。世界に対して、公平でありたいし、公正でありたいのだ。
その価値観は、声の小さな彼以外に理解されることはない。声の大きな彼が、世界を単純に把握して、物質的、あるいは視覚的な獲得に骨を折ることが理解されないように。声が小さい彼は、声が大きい彼とは違って脊髄反射的な承認を受けることはほとんどない。結果、声の小さいほうが「間違っている」「筋の悪い」「要領を得ない」方の意見としてカテゴライズされる。
文章を書こう。それもTwitterではなく、noteに。大きな声の言説は、文字に起こし、順番に並べられた瞬間に、価値を失う。勢いと抑揚がなくなった瞬間に、化けの皮が剥がれる。文章で抑揚をつけるには、オーラルのそれとは違ったテクニックが必要だから。もちろん、声が大きい彼はそんな繊細さを持ち合わせちゃいない。2000文字以上に言葉を連ねる思想を持っていない。ビジネス書がいい例だ、あれらはだいたい、30Pで事足りる。
声が小さな彼に残された手段は、一つ。文章を書くことしかない。書くことでしか救済されない。緻密な構成力と繊細な表現力、粋なワーディングを用いて、小さな声の裏に潜む複雑で多角的なパラドックスを滲み出すことでしか勝ち目はない。踏みにじられた尊厳を回復するには、書くしかないのだ。書くことで、読み手のリテラシーに寄与し、草の根的に啓蒙していくことでしか。
ショートコンテンツの時代だからこそ、簡易で平易なものが流行ってしまう安直で欲望の水準が低い日本社会だからこそ、ぼくたちは文章を書かねばならない。読まねばならない。