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文章とはささやかな自己療養への試みでは「なくなった」

 わからなくなる時がある。自分にとって文章というのがどういう位置付けなのか。日本に生まれ教育を受け育った僕にとって、文章というのは切っても切り離せない。ずっとある。親がそうであるように、近づけすぎたり遠ざけすぎたりできない。

 一応、僕は読書が好きな方らしい。たしかに本棚にはそれなりの量の書籍が所狭しと並んでいる。GWで実家に帰ると、今は見向きもしないようなテーマの本が積み上げられて今にも崩れそうだった。

 たびたび引用している「結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。」というテキスト。小説家・村上春樹先生からの引用。今、この意味を考え直してみる。本当に文章は「自己療養へのささやかな試みに過ぎない」のであろうか?

 僕は一体どうして文章を書いていたのだろう。この頃、ろくに文章を書いていない。ある時期は狂ったように書いていた。またある時期は、それなりの頻度を保って書いた。今は、ほとんど書いていない。ほとんど書かずに、どれほど時間が経っただろう。

 そうして一つ仮説が浮かぶ。「文章を書く」ということ、あるいは「文章」そのものに期待する役割が変わりつつあるのかもしれない。僕はなぜ文章を書いていたのだろうか。

 「自分をうまく語れないから、文章を書くしかなかった」という内容のnoteを上げていたことを思い出す。確か、会話の中で時間の制約と相手の反応を気にしながら話すことの難しさ、ほとんど不可能じゃないかという嘆きを書き、文章は誰にも邪魔されずに順番に書くことができる。素晴らしい、と説明した。

 もしかしたら僕は、少しばかり語り上手になってしまったのかもしれない。話術によって説明可能な領域が増えてきた。あるいは、どのように説明すればある程度の画素数を保って伝わるかを感得してきた。拡張子を変えるみたいに。つまらない人間だ。話がわかりやすいモノに魅力は一切ない。

 僕は少しだけ大人になったようだ。大人になるというのは、少しばかり社会とやらを知って、自分のことを変換して話すことができるということだ。社会で生きる人みたいだ。

 あるいは別の角度で見てみる。「自己療養に過ぎない」に対する一縷の違和感からストレートに考えると、自己療養の必要性が下がったのかもしれない。

 そもそも自己療養とはなんだったのだろうか。どのように必要だったのだろうか。もしくは、なぜ必要と思っていたのだろう?

 僕は自分のことを、脆く、未完成で、不完全な何かしら人に普通備わっている支柱みたいなものが欠けていると考えてきた。人はそれを道徳や倫理と呼んでいるかもしれない。それが欠けていた。

 倫理という精神的な支柱の欠損した僕は、その攻撃性を他者へはもちろん、自分に向けていたように思える。自分というのは自分と一番永く付き合い連れ沿うものなのだから。腐れ縁代表。

すると僕は、20何年か掛けて自分をいたぶり続けてきたことになる。毎日、ゆっくりと精神の手首を切り刻んできたし、肺を掴んで呼吸不全へとせしめた。受動的な自殺。誰も気づかないし、日本の大量の自殺者数にもカウントされない自殺。

 大学3年生のころ、9月1日に自殺がもっとも多いと知った。休みが終わる頃に自死が大量に起こるような世界なら、休み以外はいらなないと思った。

 脆く不完全で、支柱のかけたセルフイメージを持っていた僕は、自ずと療養の手段を模索してきた。たぶん言葉にならないようなあらゆることが療養への試みだった。

 心療内科に行ったことがあった。その日は心療内科にいけるくらい心が元気だったから、問診のアンケートに調子よく、小気味よく答えた。「この調子なら、あなたは特になんともないと思うけれど」と医者に言われた。以来、一度も心療内科には行っていない。

 今の自分はどうなのだろう。今の時分の自分。セルフイメージは未だ「支柱の欠けたもの」に見える。以前ほど脆弱性は誇張されていない気もする。しかし、未だ療養が必要な欠けた存在である。それなのに、今は「文章は自己療養への試みに過ぎない」と言ったテキストに懐疑的だ。

 誇張こそ薄れど、ほとんど変わらない自己像。支柱が欠け、真ん中ががらんどう。神社みたいだ。

 そして一つ、変化に気づく。中心の支柱も核もない僕にも、側面からの支えがあることに、気づく。実態のない幽霊のような存在であるはずなのに、確かに実態のある生命に支えられていると。

 すり抜けず、透過せず、こぼれ落ちず、僕はたしかな手触りをもって支えられている。この認識は圧倒的な差異だ。支柱も核もなくとも、実態めいたものを伴い、現実的に補助され得るのだ。あるいは、欠けていることがケアを引き出しているのか。

 ともかくアダルトチルドレンというか、そのまま赤ん坊というか。僕にはケアがある。他者からのケアだ。赤子の小さな掌に指を添えると、反射として力弱く握られる。まるでつながりを、世界からのケアを赤子が実感するように。僕はその赤子同然に、差し出された指を握り返し始めている。

 他者からの療養は常にそこに存在したのに、そんなものはないはずだ、だって僕は歪で排斥される存在なのだからと嘆いてきた。だから、文章を書くしなかった。自己療養の手段を探ることで、世界からのケアを受け入れることを逃れてきたのだ。受け入れないうちは、世界とはきちんと都合の悪いままだからだ。都合の悪い方が都合がよかった。支えを受け入れることは、自分の脆弱さを根本的に承認することだから。ケアのある都合のいい世界では、自分は本質的に脆弱ということになる。支えのない都合の悪い世界では、自分は自己療養可能な脆弱性の中にしなやかさを抱く存在であれる。

 僕は自己療養を通して、自分の脆さを否定したかったのかもしれない。そして、そんな些細なことに気がつくことができたのは、自己療養に文章で取り組んできた果実だろう。

 文章を書くという自己療養を通して、世界中にある支えやケアを実感することができた。そうして、自己療養への試みとしての文章は必要がなくなった。

 僕の中での文章の位置付けが再定義された。文章は自己療養へのささやかな試みではない。文章は自己療養へのささやかな試みを通して世界に溢れる支えに気づき、その体験を伝えることで他者療養を試みることに、すぎない。

 今度は、人にために文章を書こうと思う。


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