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ドフラミンゴが言う「勝者だけが正義」について

  昨日、こういうnoteを書いた。実際には、「noteを書いた」という感覚はほとんどなく、「文章を書いた」という感覚だけがつよく、つよく残っている。この文章をきっかけに、ぼく狼だぬきは継続的に文章を書くということが決まった。神のお告げというと大仰に聞こえるかもしれないが、それに近い何かの知らせ。直感的判断。神よりはもっと抽象的で、一方で現実的な何か。

 さて、穴ぼこについて書こうと思う。精神的欠損。欠落的穴ぼこ。普通に生きていたら、決して誰にも晒すことのない秘境。文字通り、穴ぼことそれ以外には東西ドイツを分かつベルリンの壁を思わせる圧倒的な境界が、その奥の秘部とを隔てる。小学生時代につくった、決して大人という他者に見せない秘密基地のように。

 文章は、そのような日常で取り上げることない秘部に光を当てることができる。おそらく、しばらくのテーマはぼくの個人的すぎる秘部から、特定のテーマを抽出して垂れ流すことだろう。

 今日光を当てる一つの欠落。ぼくは「正義感」というものが分からない。誰かから「正義感がある」と数回言われたことがある。少なくないはずだ。少なくともハンサムと言われた回数よりは多い。絶望的にブサイクでもないので、参考にはなると思う。とにかく、それでも「正義」というものは分からない。時に、一般的な倫理に照らして、ぼくの行動は明らかに不備がある。その回数も、「正義感」の評価と同様に少なくない。

 中学の頃、ワンピース頂上決戦でドフラミンゴがこう言ったのを思い出す。

「正義は必ず勝つって!?そりゃあそうだろ 勝者だけが正義だ!!!」

 14歳のぼくはえらく関心したのを覚えている。尾崎豊を好んだ14の夜のぼくには、学校や親、部活という世界のほとんど全ては、ぼくを苦しめる制約でしかなかった。「正解」や「正義」は彼らによって提示され、ぼくらはそれに身を馴染ませる他ないと絶望した。尾崎豊を聞いていても、ぼくは事実弱かったからだ。

 以降、ぼくはレベル上げに集中することになる。勝者が「正義」を定義できることを一つの信条というか、価値観のようなものとして取り込み、勝てない勝負は行わず、勝ちたいものにはどうにかして勝てるようにレベルを上げた。


 それから10年ほど経った今、思う。「本当に勝者だけが正義」なのだろうか?「正義」とは、それほどシンプルなものなのか?一本の数直線の右か左かの極端な揺れ動きしかありえないのだろうか?

 とまあ、短絡的に批判することは簡単。おそらく、ドフラミンゴはこう言いたかったのではないだろうか。彼はそれほど馬鹿ではなかったはずだからだ。

「正義はプレイヤーの数だけ存在する。彼らは親しい正義の定義を掲げる人々で集い、名前をつけ、旗を立てる。そうすると、異なる旗の間で分断が生まれ、争いとなる。正義を守るあくなき闘いだ。歴史とは、正義の闘いの集積だった。振り返って『あれが正義だった』と語ることはできる。しかし、歴史のまさにそのタイミングにおいて『何が正義なのか』を判断することは難儀だったであろう。だからこそ、常に『勝者が正義として語られざるを得なかった』。人類が歴史を繰り返すのであれば、これからも『勝者だけが正義』になってしまう。だから、正義を証明したい限り、勝つほかに選択肢はない」

 つまり、ドフラミンゴは「勝者だけが正義だ」と言わざるを得なかっただけだ。それはドフラミンゴの個人的な意見ではなく、あくまで歴史的な一般論。それも、統計的に非常に確からしい傾向。確率論。期待値として、歴史を代弁したに過ぎなかったのだと思う。

 さあ、それじゃあぼくの「正義」はなんなのだろうか?少なくとも、一般倫理に意気揚々と照らすことができる代物ではないことは先に書いた。「正義」は共存できるのか?短絡的なチーム分けをせずに人は共生できるのか?あらゆる個人的「正義」が、他者の「正義」を打ち破るでもなく、非干渉的に、それでいて協力的な相互作用をもたらすことはあり得るのだろうか?道徳の教科書に出てくるような高尚な「正義」を持ち合わせることはできなかったが、それはそれなりの役割があるのだろう、探す他ない。

 とにかく、そのような「正義」の調和を見れないうちは、ぼくは一般的な倫理に対して顔向けはできなさそうだ。来世ではドフラミンゴと仲良くしたい。来世では、ドフラミンゴの「正義」とぼくのそれが共存できたらいい。欲を言えば、今生で。

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