アラン・ドロン主演作『太陽がいっぱい』解説決定版・完結編「すべては受胎告知のために…。はたしてルネ・クレマン監督は何を伝えたかったのか?」
ええっ!?
か、完結編…?
クロージングに入ったな…
一気にまとめるよ。
まずは映画を知らない人のために予告編をどうぞ。
主な登場人物は4人。
■トム・リプリー(アラン・ドロン)
彼は庶民の生まれで、道楽息子フィリップの少年時代からの遊び相手(おそらく使用人の息子?)。学問や教養は無いけれど、小手先の模倣技術は抜群。筆跡偽造からヨットの操縦、女性の扱い方までフィリップから見よう見まねで盗んでいく。彼がフィリップになりすまし、財産を奪おうとすることで様々なドラマが巻き起こる。
■フィリップ(モーリス・ロネ)
サンフランシスコの大富豪グリーンリーフ氏の息子。莫大な財産を相続することが決まっている道楽息子で、イタリア・ナポリ近郊の島モンジベッロで恋人マルジュと優雅に遊んで暮らす。
洋上でトムにより殺害される。(使用凶器:ナイフ)
■マルジュ(マリー・ラフォレ)
フィリップの恋人。パリで芸術を学ぶ学生で、研究テーマは15世紀の宗教画家フラ・アンジェリコ。フィリップの遊び癖の酷いところと、自分の興味(宗教画)に無関心なところに不満を持っている。彼女の名前がフィリップの船に付けられている。
■フレディ(ビル・カーンズ)
フィリップの遊び仲間。自分たちと出身階級の違うトムを嫌っている。トムがフィリップになりすましていることに気付き、ローマのホテルで殺される。(凶器:布袋尊の置物)
ちなみにこれまでの解説はこちら。7回までいったけど、まだまだ終わる気配がなかった…
寄り道が多過ぎるんや。毎度のことやけど。
あれもこれも…ってやってるうちに、ついつい長くなっちゃうんだよね。
だから今回で一気にまとめちゃうよ。
ルネ・クレマン監督版『太陽がいっぱい』を読み解くポイントは、原作から「何が書き換えられたか」にあった。
パトリシア・ハイスミスによる原作『The Talented Mr. Ripley』では、主人公トム・リプリーに関して同性愛描写があった。だけど映画化にあたりルネ・クレマンは「同性愛要素」を排除したんだ。そして、それだけじゃない。登場人物の名前や、使われる地名も大胆に変更した。
聖書の世界に変えちゃったんだったよね。
その通り。
ルネ・クレマンは大胆にも物語のベースを聖書に置き換えたんだよ。
もともとハイスミスの原作は「ローマ建国神話」をベースにしていたのにね。
狼の乳で育てられたロームルスとレムス兄弟の物語やな。
おっぱいが、いっぱい!
ははは。その通りだね。
子育てに熟練した雌狼だから、このような乳になっているんだろう。
さて、この兄弟は古代ギリシャのトロイア戦争で滅んだトロイア王家の末裔にあたるんだ。戦争敗北で亡命した戦士アイネイアスがイタリア半島でラテン系の女王と結婚して、生まれた子シルウィウスから数えて12代目の王ヌミトルの孫なんだよね。
「12代目の王の孫」なんて言わんで「14代目」って言えばええやろ。
これがまたややこしいハナシでね…
ヌミトル王の娘、つまり兄弟の母は「半処女懐胎」で身籠ったんだ。
処女懐胎!?
しかも「半」って何?
実は兄弟の父親は「この世の人」ではなかったんだ。だから「戸籍上」は「父親不明」なんだよね。
発端はヌミトル王の弟アムーリウスのクーデターから始まった。兄王を追放したアムーリウスは、王の一人娘レア・シルウィア(別名イリア)に「処女であること」が義務付けられる巫女にして神殿に幽閉した。そうすれば子を設けることもなく、兄の血筋を絶やすことができるからね。
そんなある日、神殿に軍神マルスが忍び込んできた。美しい乙女レア・シルウィアの噂を聞いて、ちょいと「味見」に来たというわけだ。
ラテン系の神だけあって、ノリがラテン系やな。
日本も平安時代まではこんなノリだったんだけどね…
鎌倉幕府成立で一気に真面目になってしまった。
たぶん北条政子のせいやで。
また寄り道!
てか、ローマ建国神話も寄り道っぽいけど!
でも「ハイスミスの原作」と「クレマンの映画」の違いを語る上では大切なことなんで続けるね。
レア・シルウィアはマルスの子である双子を身籠った。マルスはもちろんコトだけ済ませたらトンズラしてるよ。
さて、これを知ったアムーリウスは当然の如く激怒した。姪にあたるレアの「ふしだら」を激しく罵った。でも彼女は頑として言い張ったんだ。
「相手は人間ではありません。だから私は処女の誓いを破ってはいないのです!」
たくましいね…
それで「半処女懐胎」か…
怒ったアムーリウスは、生まれたばかりの兄弟を川に投げ捨てた。そして兄弟は流され、やがて一匹の雌狼に拾われる。そしてその乳を飲んで育ってゆく。
さっきの有名な写真だね。
実を言うとルネ・クレマンは、原作を大きく書き換えただけじゃなくて、ちゃんと「ローマ建国神話」に敬意を払っている場面もあるんだ。
たとえば映画冒頭のローマでのシーン。ナンパした妙齢の御婦人を挟んでトムとフィリップが両サイドからキスしまくる描写だ。
この時、二人は御婦人の乳を揉みながらキスをする。
これは「雌狼の乳を飲むロムルスとレムス」への敬意を表してのことだね。
相手が「おばはん」やったことにこんな深い意味があったとは…
あんな「おばはん」の乳を揉みまくるなんて二人は相当なマニアやな…ってワイは密かに感心しとったんやで…
せやけど、まさかあれが原作への「敬意」やったとは…
恐るべしルネ・クレマン…
さて、やがて成長した兄弟は、自分たちの出生の秘密を知ることになり、祖父から王位を奪った大叔父アムーリウスを力を合わせて討つ。そして亡命していた祖父ヌミトルが再び王位に就く。兄弟は新天地で自分たちの国を作ろうと、現在のローマの地へやって来た。
しかしここで兄弟が争うことになる。新都市の中心地をどの丘にするかで揉めだしたんだ。兄ロムルスが築いた城壁を跨いで挑発した弟レムスは、兄の怒りを買い、殺されてしまう。そしてロムルスの名を冠した都ローマが作られた。
兄が弟を殺してしまうって、カインとアベルみたいだな…
源頼朝と義経もせやな…
さて、ハイスミスの原作『才能あるトム・リプリー』では、トムはフィリップ(原作ではディッキー)をサンレモ旅行へ誘い出す。そして海で小さなボートに乗り、誰にも見られない場所に移動し殺害する。
その「サンレモ」とは「聖ロムルス」という聖人から名付けられた町。ローマ建国神話のロムルスと同じ名前を持つ聖人なんだ。だから「二人でサンレモへ行こう」というのは、ロムルスとレムスのように殺人が起こることを暗示していることになる。
なるほどね!
でも映画では「サンレモ」じゃなくて「タオルミナ」だった。
イタリアの南北で全く正反対の方向(笑)
タオルミナはエトナ火山の麓の港町なんだよね。そしてイタリアではこんな言い伝えがある。
「ノアの大洪水を引き起こしたのは、エトナ山の噴火による大地震だ」
ちなみに物語のメインの舞台となる町「モンジベッロ」というのは架空の町でね。このモンジベッロという名前は、エトナ山の古い呼び名なんだ。
「神は怒るとモンジベッロを噴火させる」って昔のイタリア人は考えていたんだね。エトナ山は、神の山なんだ。
なるほど!
物語のベースをローマ建国神話から聖書に変えたから、サンレモがタオルミナになったのか!
そうなんだよ。
これまでの回で説明した通り、ルネ・クレマンはハイスミスの原作を大幅に改編した。ロムルスとレムス兄弟の物語をベースにした話から「大天使ガブリエル」と「神の子イエス」の物語に書き換えたんだ。神の寵愛を求めてガブリエルがイエスからその座を奪おうとする略奪劇にね。
そんでその最重要アイテムが、マルジュに贈られたフラ・アンジェリコの画集にあった『受胎告知』の絵やった…
映画の中で映るのが、この絵や。
その通り。これまでの解説をまとめると…
主人公トム・リプリーの役割は大天使ガブリエルに置き換えられ、イスカリオテのユダも投影された。
殺される道楽息子にはイエスの役割が与えられ、使徒フィリポと聖フランシスコの要素も加えられた。
そしてマルジュは、聖母マリアとなった。
ハイスミスの原作から変更されたことの中から重要なものをピックアップしよう。
まずは道楽息子の名前変更。
これは、聖書に出て来る聖フィリポのキャラクターを使うためだった。
「ディッキー」やとホモ・セクシュアルを連想させてまうからな。ディックは「男根」のことやさかい。
十二使徒のひとりフィリポは食料調達係だったね。つまりみんなを食わせる役割。映画でも道楽息子フィリップはマルジュやトムを食わせていた。
それから使徒フィリポ最大の役割といえば、イエスが最後の晩餐で「私は死ぬ。そして天の父のもとに帰る」と告げた時、それを受け入れられず弱気になってしまい「そんなの嫌です。今すぐ天の父に会わせてください」と駄々をこね、呆れたイエスから「私を見ることは父を見るに等しい」という言葉を引き出したこと…
そのやりとりが映画『太陽がいっぱい』のラストシーンで効果的に使われるんだよ。
トムが偽造したフィリップの遺言に従ってヨットが名義変更されることになり、サンフランシスコから大富豪グリーンリーフ氏がモンジベッロの港にやって来た。マルジュはトムに一緒に港へ会いに行こうと誘う。でもトムは会うのが怖いから行かない。フィリップをイタリアから連れ戻してくれと依頼されたのに、フィリップを殺してしまい、マルジュを通じて彼の遺産を奪ったわけだからね。グリーンリーフ氏の顔を真っ直ぐに見ることができないと思ったんだろう。
そしてマルジュはグリーンリーフ氏と会う。しかし同時にフィリップの姿を見ることにもなってしまう…
「ニューヨーク」から「サンフランシスコ」の変更は、聖フランシスコの要素のためだったね。放蕩息子から聖人になったフランシスコのキャラクターを取り入れるため。
その通り。
フランシスコは裕福な生地商人の息子に生まれた。母親は異国フランスの女で、フランシスコにフランス語で子守唄を歌ってくれたそうだ。
まさにマルジュ演じるマリー・ラフォレやな。
フランシスコは生地商人の息子らしく、とってもオシャレだった。ナウい服を着て花の都ローマに繰り出しては、ボンボン仲間と放蕩三昧だったんだよね。
だから『太陽がいっぱい』でもファッションが重要なアイテムになっている。フィリップやトムは何度もシャツを着替えるよね。恐るべきことに、全ての服には意味が込められているんだよ。
なぬ!?
タネ明かしをしちゃうとね、映画に出て来る服装は全て『受胎告知』の絵の中に描かれている人物の服装に対応しているんだ。色や模様がね。
『受胎告知』ってフラ・アンジェリコの作品だけでも何種類もあって、それ以外にもエル・グレコやボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど大御所の作品もたくさんある。それらの中で大天使ガブリエルやマリアが着ている服装が、映画の中で使われているというわけなんだ。
例えばトムがヨット内で着ていたピンク地のシャツ。
これはアンジェリコのガブリエルそのものだよね。
そしてこちらはフィリップを殺害後に着替えたシャツ。紫っぽい地に大きく百合の花が描かれているよね。
これなんかはボッティチェリの描いたガブリエルかな。
色も似てるし、大きな百合の花を持ってるしね。それにちょうど半袖だ(笑)
なんだこれ!おもしろい!
まあこんな具合になってるから、全てを解説したらキリがない。興味をもった人は、各自で確認してみたらいいかもね。
クレマン、ウケる(笑)
さて、次はヨットのマルジュ号での殺人だ。
原作では「レンタルボート」に乗って「オールで殴る」という質素さだったけど、映画ではゴージャスに豪華ヨットでのナイフを使っての犯行となった。
ちなみにこちらが原作にほぼ忠実に作られたマット・デイモン主演の『リプリー』での殺人シーン。
ちっちゃ!
これじゃあトムが「炎天下で放置」のお仕置きをくらったボートじゃんか!
そうだよね(笑)
でも、この変更も『受胎告知』的には重要なことだったんだ。
『受胎告知』に船は関係ないやろ。
それが、あるんだよね。
映画『太陽がいっぱい』において、マルジュは処女マリアが投影された人物だった。そしてイエスが投影されているフィリップの船には、マルジュの名が付けられていた。
つまり、イエスの「船」がマリアということだ…
これが何を意味しているのかわかるかな?
う~ん…
「船」が…「母胎」ってこと?
そうそうそれそれ!
聖書において、処女マリアは神の子イエスを宿す。そしてイエスは神の子であるだけではなく、同時に神を体現する存在でもあった。
使徒フィリポのところで解説したね。「私を見ることは父を見るに等しい」ってイエスが言ったことを。
だから映画のラストでフィリップと父グリーンリーフ氏が現れたんだよ。イエスがこの世に顕現したために…
け、顕現!?
ラストの港のシーンは、イエスの「懐胎・誕生・復活」を表しているんだ。神の世界から、人間世界に現れたことをね。
まずマルジュは、陸揚げされたマルジュ号を眺める。するとスクリューにロープが絡まっているのが見えた。
そしてそのロープの先には…
シートとロープで包まれた死体が…
よく見ると、隙間から手首が突き出ている。
それは行方不明になっていたフィリップだった…
ま、まさかこれは…
その「まさか」だ。
フラ・アンジェリコの『受胎告知』を再現したものだね。
マリアと神の手首が光の帯で繋がってるバージョンのやつだ。
見え辛いから、手首のアップも。
うわあ!
さらに楽園から追い出されるアダムとイブの表情を見て。
アダムは何かに怯えている感じで、イブはマリアと話し込んでる大天使ガブリエルを睨んでいる。
この表情って、マルジュが港へ向かう前にトムがキスした時の表情だよね。「一緒にグリーンリーフ氏に会いに行こう」って言ったのに「行かない」ってトムが答えたことを怪しんでる感じの。
確かにそうだ!
この時のトムは、内心ビクビクだったんだ!あの絵のアダムの表情みたいに!
クレマン、細かい!
だいぶ長くなったんで、続きは後編にしようか。
ではでは。
ーー後篇に続くーー
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